日本ピューリタン教会 We Are the Japanese Puritan Church

Wednesday, December 31, 2014

2015 キリストの強度 Strength of Christ

今の世界では、発想も視点もグローバルでなければなりませんが、それは単に“世界規模で考える”というだけでは足りません。私たちの視点は、「どこ であっても誰に対しても変わらない福音の視点に立つこと」、すなわち「普遍的」である必要があります。それは、神がすべての人間を愛しているので、だれ一 人として関心の外に置かれてはいけないという視点です。

船員たちは一度、出航すると誰の視野にも入らない大海原に入っていきます。彼らは世界の経済の実質的な担い手でありながら、どこかで大変な困難にあって いたとしても、それを心配して祈っているのは、愛する家族以外にはほとんどないのです。私たちは神の前に真の家族なら、彼らのことをずっと心に留めて見守 り、無事を祈り続けたいと思います。その思いを少しでもあらわそうと、港に入ってきた船を訪問する人たちがいます。私たちは彼らを通して、日本の港に入っ てきた船員とつながっていくことができます。

どうか船員たちのために祈り、また訪船活動をしている人たちの活動を物心両面で支援して下さるようにお願いします。

「海で働くすべての人たちがいつも神さまに守られ、無事に働きを終えて家族のもとに帰ることができますように」
 
In today's world we continually hear the idea of thinking globally.  The problem with this is that often it means thinking secular without regard to faith and scripture.  This has caused much friction between not only churches and secular institutions but among churches themselves.

As Christians our first and foremost responsibility is to remain faithful to Christ and the Gospels.  Showing respect for others is a duty but when that respect is a demand to compromise our faith and morals then it is best for the Christian to simply cut ties and walk away.

Christianity is not an easy path today, but then again it never has been.  Our ship of faith has weathered many storms and will continue to.  Since the Resurrection of Christ, Christians have been called in each generation to stand on faith and this is the case today.

May 2015 be a year of great growth of faith and a year our individual walks with Christ strengthen.  Just as a ship on the ocean batters storms, our walk with Christ will as well.  We can take great comfort our captain never lets us down.

Saturday, November 1, 2014

マガジンの記事



私たちの仕事は、観光マガジンに書いた.

フィリップビーチさんありがとうございました.

Japan Vistor


Sunday, October 12, 2014

ヨハネ 6:16-34 John 6:16-34

池田公園名古屋市 Ikeda Park in Nagoya

ヨハネの福音書616-34

イエスは5個のパンと2魚と5000人に供給した。イエスは彼らのために奇跡を行った。人は後でイエスを見つけたとき、彼らは別の奇跡を要求した。彼らはより多くを望んでいた。

 
イエスは怒った。イエスは、彼らがパンと魚の彼らの塗りつぶしを知っていた。人は貪欲だった。イエスは、彼らが永遠の命に焦点をしたかった。

 
モーセとイスラエル人は神によってマナを与えた。神が提供した。
イスラエル人は空腹感じたことはありませんイエスは命のパンです。イエスは主であり王です。イエスは私たちは天国に注力したいと考えています。私たちは世俗的な心配事についてあまり焦点を当てるべきではありません。イエスは2000年前に私たちの最大の奇跡を与えた。
 
イエスは復活しました。イエスは私たちに永遠の命を与える。イエス様は毎日私たちのために用意されています。私たちは祝福に目を開く必要があります。私たちは奇跡を必要としません。私たちは永遠にイエスと共に天を必要としています。イエスの使命だった。イエスは奇跡を行うことができます。私たちは奇跡を要求するべきではない。要求の厳しいは謙遜ではありません。感謝であることはイエスが望んでいるものです。


Gospel of John 6:16-34Jesus fed 5000 people with 5 of pieces bread and 2 fish.  Jesus performed a miracle for them.  When the people later found Jesus they demanded another miracle.  They wanted more.

Jesus got impatient.  Jesus knew they had their fill of bread and fish.  The people were greedy.  Jesus wanted them to focus on what is important - eternal life.  


Moses and the Israelites were fed manna by God.  God provided.  The Israelites never went hungry.  Jesus is the bread of life.  Jesus is lord and King.  Jesus wants us to focus on heaven.  We should not focus too much on worldly cares.  Jesus gave us the greatest miracle 2000 years ago.


Jesus resurrected. Jesus give us eternal life.  Jesus provides for us every day.  We need to open our eyes to blessings. We do not need miracles.  We need heaven with Jesus forever.  That was the mission of Jesus.  Jesus can do miracles.  We should not demand miracles.  Demanding is not humility.  Being thankful is what Jesus wants.

Sunday, October 5, 2014

ヨハネ 6:1~15 John 6:1-15


そして、「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て」、フィリポにこう言いました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよ いだろうか」(5節)。イエス様は群衆を見ていました。群衆が空腹であることを思っていました。彼らのことを心配していました。しかし、イエス様は一人で 考え一人で彼らのことを思うのではなくて、弟子たちにも一緒に考え、一緒に彼らのことを思って欲しかったのでしょう。この言葉によって、イエス様について きたフィリポは、イエス様と同じ方向に向けられ、人々と向き合わされることになりました。これまでよその人々だった彼らと、関わりを持たざるを得なくなっ たのです。

横からアンデレが口をはさみます。彼もまた、人々と向き合わされて、いろいろと考えたのでしょう。考えるだけでなく行動もしてみました。食べ物を 持っている少年を見つけてきたのです。しかし、結論は一緒でした。「ここに大麦のパン五つと魚二匹を持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人 では、何の役にも立たないでしょう」(9節)。やはり足りない。何の役にも立たない。 


そのような言葉から彼らの姿勢が見えてきます。既に腰が引けています。イエス様がせっかく向き合わせてくださったのに、人々と関わることを放棄し始めて います。手を引こうとしています。他の福音書を見ますと、弟子たちはイエス様にこう提案しています。「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周り の里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」(マルコ6:36)。――イエス様、彼らを解散させてくださいよ。自分のことは自分で、ということで。私 たちは自分たちのことだけを考えましょうよ。要するに、そう言いたいわけです。


「自分たちだけのことを考えましょうよ。」今日の教会も、同じことを言っているのかもしれません。外に目を向けることによって、結局は自分の貧しさ と向き合わざるを得なくなるならば、むしろ自分たちのことだけを考えていましょうよ、と。そうやって、内向きの教会となって、自分たちに居心地のよい集ま りを求め、自分たちの存続のことだけを考えていれば、確かに自分たちの貧しさや無力さと向き合う必要はないかもしれません。個々のキリスト者についても同 じことが言えるかもしれません。内向きのクリスチャン。他の人の救いのことなんて考えないで、人々と向き合ったり関わりあったりしないで、自分の心の平 安、自分の喜び、自分の人格的な成長だけを考えましょうよ、と。人々と向き合わなければ、愛することのできない自分の貧しさや、助けることのできない自分 の無力さに悩む必要もありません。確かにそうです。 


しかし、イエス様はそのような私たちであって欲しくないのでしょう。イエス様が考えているあの人のこと、この人のことを、一緒に考えて欲しいのでしょ う。この滅びに瀕して苦しんでいる世界と一緒に向き合って欲しいのでしょう。あのフィリポのように、私たちもまた、本当はもう向き合うべき人と既に出会わ されているのではありませんか。それは家族かもしれないし、友人かもしれない。関わりあったら自分の無力さばかりが見えてきて惨めになるから、見ないよう にしてきた人々かもしれません。イエス様は言われるのです。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と。 

しかし、そのように言われるイエス様なのですが、実は聖書の言葉はこう続いているのです。「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分は何をしようとしているか知っておられたのである」(6節)。 

当たり前の話ですが、イエス様は自分がどうしたらよいのか分からなくて、弟子たちに相談したわけではありません。また自分の手に負えないから、その責任 を弟子たちに丸投げしたわけでもありません。イエス様は、弟子たちが持っているものではどうにもならなことは分かっておられるのです。弟子たちは貧しさを 覚えたことでしょう。自分の無力さを思ったことでしょう。しかし、弟子たちの貧しさや無力さなど、イエス様は初めから分かっておられるのです。イエス様は 御自分で何とかするつもりでおられたのです。 

なぜなら、このパンの奇跡はそれ自体がメッセージなのであり、イエス様がいかなる御方かを指し示すしるしであったからです。今日はお読みしませんでした が、この同じ章の後の方で、イエス様はこう宣言しているのです。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じ る者は決して渇くことがない」(35節)と。イエス様こそ、人間の根源的な飢えと渇きを癒す御方であること、イエス様こそ永遠の命を与えて救うことのでき る御方であることを宣言されるのです。そのために自分の命さえも献げ尽くして、分け与えてしまおうとしておられたのです。そのように、イエス様はすべて御 自分でなさるおつもりだったのです。 

しかしだからと言って、イエス様は「わたしがすべてやるからお前たちはあっちに行っていなさい」とは言われないのです。イエス様は、あくまでも「一緒に やろう」と言ってくださる。あの弟子たちにも、そしてここにいる私たちにも。そのようなイエス様の思いが、この物語にははっきりと見て取れます。 

考えて見てください。どうせ奇跡によってパンを与えるならば、何もないところからパンを出した方がもっとセンセーショナルでしょう?イエス様にはできた と思います。わたしはそう信じます。無から有を生み出すことだってできたに違いない。しかし、イエス様はそのようにはなさいませんでした。イエス様は、子 どもが持っていた五つのパンと二匹の魚を受け取られたのです。そして、感謝の祈りを捧げ、パンを裂いて分け始めました。考えてみれば、いかにも滑稽でしょ う。男だけ数えても五千人もいるのです。そんな大群衆の前でそれをやったのです。いったいそんなことして何になるのさ、と思えるようなことをあえてやった のです。――すると、そこに神の御業が現れて、人々は完全に満たされた! 

弟子たちはこの出来事を忘れませんでした。いや忘れようにも忘れることができなかったに違いありません。なぜならその後の弟子たちの経験、後の教会の経 験は、まさにそのようなことの連続だったからです。教会がやってきたことは、まさに「こんなことして何になるのさ」と思えるようなことばかりではありませ んか。その最たるものは、洗礼と聖餐でしょう。水の中に一回ぐらい沈めたり、頭に水をかけたぐらいで、いったいそれが何になりますか。僅かばかりのパンを 分かち合って食べて、それがいったい何になりますか。今日も聖餐が行われます。こんなパンのかけらみたいのを食べたからって、それがいったい何になるで しょう。この世の目から見たら、まさにそうでしょう。しかし、教会がそんなことを二千年も続けるなかで、まさにあの時のように、神の御業が現されてきたの です。命のパンであるキリストが分かち合われ、人々はまさに神の与えてくださるものによって、生かされ、満たされ、救われてきたのです。 

また、ヨハネによる福音書は特に、この五つのパンと二匹の魚が、少年の持っていたものであったと伝えています。わたしは本人の同意なく、イエス様が勝手 にパンと魚を取り上げて分けてしまったとは思いません。その子がイエス様に差し出したに違いない。アンデレが「何の役にも立たないでしょう」と言っている のに、その子はパンと魚を差し出したのです。そして、主は喜んでその差し出されたパンと魚をお用いになられたのです。それはアンデレに、また他の大人たち に見せるためだったのかもしれません。大人はどうしても「こんなものが何になるのか。何の役にも立たないでしょう」というのが先に来てしまうのです。そう やって献げることを躊躇するのです。しかし、子どもはそうではありません。
大好きな人にだったら、なめて半分になった飴だって「これあげるね」って差し出 すのです。 

しかし、やがてその弟子たちも、結局はあの少年と同じようになって行ったのです。弟子たちは後に復活したキリストから、「全世界に行って、すべての造ら れたものに福音を宣べ伝えなさい」と命じられることになりました。五千人どころか、全世界と向き合わされることになったのです。彼らは貧しい一握りの弟子 の群れに過ぎません。自分たちの持っている何を見ても、「何の役にも立たないでしょう」としか思えなかったに違いありません。自分自身を見てもそうでしょ う。皆、キリストが十字架にかけられた時に、見捨てて逃げてしまったような弟子たちです。「こんな私、何の役にも立たないでしょう」と言わざるを得ないで しょう。しかし、それでも彼らは自分の持てるものを、自分の能力を、自分自身を、そのまま献げたのです。子どものようになって!キリストはそれをすべて受 け取って、命のパンを世界に与えるために用いられたのです。それが教会の歴史です。 

私たちもまた、キリストに差し出してみたらよいのです。自分の持てるものを。自分自身を。キリストが用いてくださいます。この世界に命のパンを分かち与 えるために。私たちが向き合うようにと出会わせてくださった人々に、命のパンを分かち与え、生かし、救うために、きっと用いてくださいます。 

"Jesus lifted up his eyes and saw a great crowd of people coming to him," and then he says to Philip, "Where should we buy bread to feed these people?," (verse five). Jesus was looking at the crowd. He felt that the crowd was hungry. He cared about them. However, Jesus was not thinking by himself, he was not by himself in his having thoughts about them, he was thinking about them along with the disciples, he was wanting them to think with him about the crowd. According to the statement, Philip, who had been following Jesus, was directed in the same direction as Jesus and was facing towards the people [because he had been led to]. He could not help having a bond with them, [though] they were strangers [to him] so far.

From the side Andrew cuts into the conversation. He, too, was facing the people, and was probably having all kinds of thoughts. He didn't just think, he also tried to do something. He had found a boy who had some food. But, [his] conclusion was the same [as Philip's]. "Here's a boy who has five barley breads and two fish. However, with as big a crowd as this, it wouldn't be of any use," (verse nine). After all is said and done, it ain't enough. It won't be of any use.

Their attitudes are visible from those kinds of statements. They were already fainting. Even though Jesus took great trouble to have them come face to face with things, they were beginning to quit for good in having anything to do with the people. They were about to pull out. When we look at another gospel, the disciples make the following proposal to Jesus. "Please let the people disperse. By doing so, they will go to the nearby villages and countryside to buy something to eat," (Mark 6:36). -- Hey Jesus, please let them all go. Our business is us. Let's just think about ourselves. In short, that's what they are wanting to say.

"Let's just think about ourselves." Even churches today may be saying the same thing. Besides by directing our eyes else where, eventually, when we cannot avoid coming face to face with our own poverty, instead we say, let's think just about ourselves. Thus, as the church becomes introverted, when [the people] seek a comfortable meeting for themselves and think only of their own continuation, they may [feel like they do] not need to come face to face with their own poverty and powerlessness. The same thing could be said about individual Christians. Christians [can become] introverted. They do not think of the salvation of other people. They never have anything to do with or come face to face with others, but say, let's think just of our own peace of mind, our own joy, our own personal growth. If we don't face others, we have no need to be troubled over our poverty in not being able to love and our powerlessness in not being able to help. That certainly is the way it is.

But, Jesus does not want us to be that way. Jesus wants us to think with him about each and every person that he is thinking of. Right along with him he wants us to come face to face with the world that is suffering and on the verge of destruction. Just as Philip [had to], haven't we already been made to encounter the people we are supposed to come face to face with? It may be family, it may be friends. It may be the people that we have [decided] not to see because when we have to do with them, only our own powerless came out into the open, and we became miserable. Jesus says, "Where should we buy bread to feed these people?"

Now, Jesus did speak that way, but the words in the scripture actually continue with "The reason he said that was to test Philip, but he knew what he himself would do," (verse six).

The whole thing seems reasonable enough, that Jesus consulted with the disciples not because he doesn't have a clue about what he himself ought to do. Neither is he passing the whole task onto the disciples because he cannot manage it himself. Jesus understands that what the disciples have will be futile. The disciples will get a sense of their poverty. They will feel their own powerlessness. But, from the start Jesus understands the poverty and the powerlessness of the disciples. Jesus had planned on doing something [the whole time].

For, the miracle of the bread per se was a message, it was a sign that pointed to what kind of person Jesus was. I didn't read it to you today, but after this in this same chapter, Jesus makes the following announcement. "I am the bread of life. Anyone who comes to me will never hunger, and anyone who believes in me will never thirst," (verse thirty-five). Jesus proclaims that he himself cures the basic hunger and thirst of humanity, and that he himself is able to save and grant eternal life. For that purpose he was willing to give out even his own life and devote it as an offering completely. Thus, Jesus intended to do it on his own.

While that is true and all, yet, Jesus does not say, "Since I am doing it all, you, go over there." Through and through Jesus says, "Let's do it together." Whether to the disciples or to us here in this place. [We can] clearly grasp these thoughts of Jesus from this narrative.

Please give it some thought. Would it be more sensational to have served bread from out of nowhere, if you were going to give bread via a miracle? I think it was a possiblilty for Jesus. I believe he could have. He could have produced something out of nothing. Yet, Jesus did not do it that way. Jesus accepted the five breads and two fish that a child had. Then he offered a prayer of thanksgiving, and after tearing the bread he began to share it. When you think about it, [the whole thing] is really ridiculous. Though they counted only the men, there are five thousand persons. He did that before such a huge crowd. He dared to do something that seemed like "There's no point in doing that at all!" -- Whereupon, an act of God was revealed by it and the people were completely satisfied!

The disciples did not forget what happened. Indeed, they could not possibly forget even if they wanted to; for, the experiences of the later disciples after them and the experiences of the church later were truly continuations of this. Hasn't what the church has been doing just what seems like "There's no point in doing that at all!?" Prime examples of that are baptism and the Lord's Supper. What is really the point in submerging once into water or pouring water over one's head? What is really the point in sharing a little piece of bread and eating it? The Lord's Supper will be observed today as well. What is really the point in just eating these little bread looking fragments? When viewed by the eyes of the world, that's how it just might look. However, while the church has been continuing to do this for two thousand years, just like at that time, the work of God has been revealed. Christ the bread of life has been shared, and the people have been made to live, satisfied and saved by what God has given.

Furthermore, The Gospel According to John tells us on purpose that these five breads and two fish was something that the boy had. I don't think that Jesus had taken up the bread and the fish involuntarily and then shared them without his consent. The child must have offered them to Jesus. Even though Andrew said, "It wouldn't be of any use," the boy presented the bread and the fish. Then the Lord made use of the bread and the fish that had been presented joyfully. [He had probably used it] to show [something] to Andrew and the other adults. The adults had come around before saying, "What will this wind up as? It will probably do no good." Because of that [they] hesitated to offer it up. But, the child wasn't that way. If it's somebody he likes, even a half licked up candy, he would offer it up, "I give it to you, please."

But, soon even the disciples would become like that boy eventually. After Christ would rise from the dead later, the disciples would be commanded to "Go into all the world and preach the gospel to everything that is created." In contrast to the five thousand, they would now have to come face to face with the entire world. They were no more than a group of a poor handful of disciples. If you looked at what they had, it must have seemed like "It would not be of any use." If you looked at them themselves, it would seem that way. All of them are disciples who had abandoned and forsaken [Christ] when he was crucified. They couldn't help but say, "Little me just won't be of any good use." But still and all, they offered what they had, their abilities, and themselves as is. They became like the child! Christ accepted every bit [of them], he used [them] in order to give the world the bread of life. That's the history of the church.

We should also give offerings [like that boy did] to Christ. Of what we have. Even ourselves. Christ will use [what we give him]. In order to share the bread of life with the world. He will surely use [what we give] to share the bread of life with the people he has caused us to meet and come face to face with, and to grant them life and to save them.

Sunday, September 28, 2014

み国が来ますように。 Thy Kingdom Come


 
み国が来ますように。 みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
私は、この主の祈りの部分、この願いを祈る時、3つの事を考えます。
1.神の国が天国、この世の終わり、永遠の命と考えます。イエス様は、この世に戻って、この世を裁いて、 王様として支配するように言われました。ある時、私はこの卑しい、ひどい世界を見る時、主が早く帰るように祈ります!(マラナタ!Maranatha)。 主がこの世の全ての悲しみとむなしさを終わらせるように 祈ります。永遠のいのちと幸せの時代を早くもたらすように祈ります。私は、その時代を期待してい ます、もっと早く来ましたら嬉しいです。しかし主がすぐ来なければ、自分が「世の最後の日」の前に死にましたら、主が私を甦らせてそのみ国に入れてくれる ように祈ります。病気で死の近い人々にとっては、この祈り「み国を来たらせたまえ」とは、十字架上の泥棒と共に祈ります、「主よ、私は、あなたの永遠の天 国に入る準備しました。私にあなたの国が来ますように」と。病気やすぐ死にそうな人と一緒にこの祈りを唱えますと、この祈りは素晴らしい平安と慰めを与え る事が出来ます。自分を神様のみ手にゆだねる事です。それこそは楽園のパラダイスです。
2.主の国が今もうすでに来られています。イエス様が公の宣教の働きを始めた時、このように言われました「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を 信じなさい」(マルコ1:15)。イエス様がいつも私達と共にいます、私達の心の中にいます。神の国、神の支配は今、ここに有ります。私達はこの世の中で 住んでいますので、神の国と力と栄えが今来ますように祈ります、先ず、私達の心の中に、そして、全世界の中です。多分、これは主の祈りの中の一番難しい所 でしょう。先ず、神様が 私達の心の中を支配するように願います。しかし、私達の罪深い性質で、私達はいつも自由になりたい、独立戦争をしたいと思います。そして、サタンはいつも 喜んで応援します、多くの誘惑や悪や苦しみによって、私達が天の父の恵み深い支配を信じない為です。ですから、私達は祈ります、聖霊が私達の心の中に入っ て、信仰を与え、神の指導に従う力を与えますように祈ります。福音書によりますと、十字架上にいる時、イエス様は王様です。十字架はその王座です。そし て、王様として、罪の力、その罪の支配を壊します。イエス様の死と復活によって、彼は本当に偉大なる王様であると分かります。彼はご自分の約束を守り、彼 を信じる全ての人々をそのみ国の中に連れて行きます。ですから、私達は「み国を来たらせたまえ」と祈る時、この赦しと愛が私達の心と人生の中に 来るように祈ります。聖霊が私達の心の中に来るように祈ります。その時、神様との平和があるので、パラダイスが私達の心の中にあります。
普通の世俗的な国は、憲法や法律で治められています。神様の国の人々は福音によって生きるのです。実は、私達がする事よりも、イエス様がなさる事、いや、 もう既に私達の為になさった事です。しかし、イエス様に従って行く時、私達の人生がその福音によって変えられています。その生き方は山上の説教に説明され ています。その時、イエス様は神のみ国について話します。信者達の人生について語ります:世俗的な普通の生活と違います、たまに反対です。イエス様は「貧 しい人が幸いである、迫害された人が幸いである」などと言われました。着物や食べ物や将来の事などを心配しないように言われました。空の鳥や野原の百合の ように満足しなさいと言われました。勿論、食べ物などは大切な物で、祈る時自分の為、他の人の為にも多くの物を願います。実は、これは素晴らしい、神様を 喜ばせる事です、神様は私達が祈って、必要な物、何でも祈るように願っています。しかし、イエス様は一番大切な祈りが何であるか教えました。山上の説教で 言われました、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と(マタイ6:33)。神の国、そして、 十字架上の王様なるイエス様が与える救いと赦しの為に祈るべきです、そうしますと、神様は私達の必要な全てを与えます。それは神様の御国のパラダイスで す。
3.私達は「み国を来たらせたまえ」と祈る時、宣教・伝道をも考えます。人を救う聖なる福音のみ言葉が世の全ての所に行くように、多くの人々が神の国の国 民になるように祈ります。伝道をする全ての人々に、私達を含めて、智恵と力が有るように祈ります。そして、私達の教会が成長して、多くの人々が主の祝福を 分かち合うように祈ります。その時、世界中の悔い改める罪人は、十字架の上の泥坊とイエス様との会話に入ります。「イエスよ、あなたの御国においでになる 時には、私を思い出してください」と。するとイエス様は私達に言われます、「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と。
アーメン。 

"Thy Kingdom come. Thy will be done on earth as it is Heaven."
When I pray this petition of the Lord's Prayer, I often think of three different things.
1. I think of the Kingdom of heaven, the end of the world and eternal life. Jesus said that he would return to the world and judge it and rule as King. Some times when I look at this sorry world, I really do wish that the Lord would return soon! (Maranatha!) That he would soon come and end all the misery and foolishness of this world. That he would bring in the era of eternal life and happiness. I am ready for that. And if the Lord doesn't come soon, then I can pray that if I die before the "Last Day," that the Lord would raise me up and bring me into his Kingdom. For some people, close to death, like the thief on the cross, this prayer, "Thy Kingdom Come," is a way of saying, "Lord, I am ready to enter your eternal heaven. Let your heaven come to me, let me go to heaven now." When we pray with someone who is sick or dying, this prayer can give wonderful peace and comfort. It is giving ourselves over into God's Hands. That is Paradise.
2. The Kingdom of God comes right now. When Jesus started his preaching ministry, he said, (Mk.1:15) "The Kingdom of God is near! Turn away from your sins and believe the Good News!" Jesus is with us always, he is in our hearts. The rule of God -- the Kingdom of God -- is right here with us right now. We are living in this world and we pray that the kingdom and the power and the glory would come right now; first into our hearts, and then to the whole world. This is the hardest part of this petition. First we are asking God to rule in our hearts. Our sinful nature is such that we always want to be independent, to fight a war for freedom, a rebellion against God. Satan is always ready to be our ally, to help us by giving us lots of temptations and evil and hardships to keep us from believing in the gracious rule of the Heavenly Father. The Lord’s Prayer is a prayer that the Holy Spirit would enter our hearts with faith and then give us the power to follow the rule of God. In the Gospel story, Jesus is King when he is on the cross. He is King when he destroys the power of sin. Through his death and resurrection, we know that he really is a great King. We know that he keeps his promises and that he will bring all who believe in him into his Kingdom. And so, when we pray "Thy Kingdom Come," we pray that this forgiveness and love will come into our hearts and lives. It is a prayer that the Holy Spirit would come into our hearts. Then, when we are at peace with God, Paradise is in our hearts.
An ordinary country is ruled by its constitution and laws. God's country is governed by the Gospel. It is not really what we do, but what Jesus does, or better, has done for us. But when we follow Jesus, our lives are changed by the Gospel. That life style is described in the Sermon on the Mount. In the Sermon on the Mount, Jesus talks about the Kingdom of God. He talks about a believer's life: it is different than that of usual life in the world, often it is opposite. Jesus said "Blessed are the poor, blessed are the persecuted," etc. He talked about not being worried about the future or about what to wear or eat or drink, to be as content as the birds of the air or the lilies of the fields. Of course clothes and food, etc. are important, and when we pray, we often ask for many things for ourselves and for others. That is a wonderful, god-pleasing thing to do, God wants us to pray and ask for whatever we need. But Jesus told us what the most important prayer is. He said, "But seek first his kingdom and his righteousness, and all these [other] things shall be yours as well" (Mt.6:33). We should pray for salvation and forgiveness: then God will give us everything else that we need, too. That is the Paradise of the Kingdom of God.
3. The third thing I think about when I pray "Thy Kingdom Come" is about Evangelism. I pray that the Holy and Saving Word of the Gospel might go out into all the world, that many more people might become members, citizens of the Kingdom of God. I pray for wisdom and strength to be given to those who work in evangelism, including myself. I pray that our church would grow and that many more people can share the blessings of the the Lord. Then all the repentant sinners of the world will join the conversation of the thief on the cross. “Jesus, remember me when you come into your kingdom.” And Jesus says to us, “Truly, I say to you, today you will be with me in Paradise.”
Amen.

Sunday, September 14, 2014

ホームレス Homeless

ホームレスで名古屋駅 Homeless at Nagoya Station

理由の人がホームレスである      The Reason People Are Homeless


ホームレス人怠惰なではない.    Homeless are not lazy

ホームレスは犠牲者:     Homeless are victims of:

壊れた家族関係     Broken family relationships

経済不況     Economic recession

雇用一時解雇     Employment layoff

精神的な病気     Mental illness


どこホームレスに住んで           Where The Homeless Live

ホームレス住んで The homeless live:


テントで                                   In tents


公園で                                     In parks

バスシェルターで                    In bus shelters

橋の下                                    Under bridges

駅で In Stations


名古屋市                                           Nagoya

ホームレスデイセンターない No homeless day center

ホームレスシェルターない No homeless shelter

解答  Solution

私たちはホームレスデイセンターの形成を助ける

Help us in the formation of a homeless day center

詳細については、
のお問い合わせフォームをご利用ください

For more information, use the contact form

Friday, September 5, 2014

イエスは貧しい人々を愛している. Jesus Loves The Poor


お金が沢山突然あなたの手に入りましたらどうしますか。遺産やジャンボ宝くじに当たったでしょうか。その場合、すぐ全部を使いはたしますか。それとも、将 来の為に蓄(たくわ)えるでしょうか。遊びか将来のための安心でしょうか。イエス様はたとえ話を話しました。ある金持ちに豊作(ほうさく)がありました。 自分が死ぬまで沢山ありました。安心でした。彼が言いました、「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」それは伝道の書のコヘレトと同じ忠告です。

保障は万全(ばんぜん)ですが、その金持ちの保障はこの地上の物に頼っています。自分の成功によって将来への安心がありました。しかし未来を知る人がいま せん。彼は神様の声を聞きました。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と。私達も将来の 為に計画します。年金(ねんきん)と貯金(ちょきん)があります。しかし株の値段が下がります。日本では年金を払う若い人が少なくなります。又、火事や突 然の病気が起こりますと、貯金全部を使ってしまいます。

自分一人で、永遠への保障を作る事が出来ません。神様以外には永遠の保障がありません。詩篇53篇が言います、「愚かな者は心のうちに「神はない」と言 う」(口語訳)。その金持ちは、すべての信頼を神様によりも、自分の働きの成功に置きました。そして神様は言われました。「愚かな者よ、今夜、お前の命は 取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と。

悪魔はイエス様を「愚かな者」と呼びました。十字架上には安全がありません。着物がはぎ取られ、お金も無く、友達は彼を捨てて逃げ、父なる神様でさえも彼 を捨てたように見えます。「「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であ る。」その日に確かになったこととは、イエス様を十字架にしっかりと付けた釘です。又彼を死刑にした世の罪です。それ以上に、私達の為に喜んで死んで下さ るイエス様の愛です。確かな保障とは神様の約束です。その約束を隣の十字架上にいる強盗に話しました。「今日、あなたは私と共にパラダイスにいる」と。

イイスターは地獄には安全な所は一つもないと証明します。悪魔が私達を永遠に捕らえておく事が出来ないこと、これがイースターの証拠(しょうこ)になりま す。本当の保障はイエス様の中にある事です。これが永遠の命です。これこそが食べたり飲んだりして楽しめる事の出来る理由です。詩篇23篇は言います、 「23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」

聖餐式に、イエス様は私達が彼の体を食べて、彼の血を飲んで、信仰の契約を結ぶように言われます。食べたり飲んだり永遠の命の安心を喜びなさいと。富を天 に積(つ)みます(ルカ12:33)。それで、私達は伝道の書のコヘレトの言葉、その忠告を理解して従います、「2:24 人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。2:25 だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。」
アーメン。

Saturday, August 2, 2014

高蔵寺平和公園 Kozoji Peace Park

メッセージ: 希望

ヨブ記1:20-22, ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。

2:7-10, サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせ た。8ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。 彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と 言ったが、 ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このよう になっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。


ヨブ記42:1-6, ヨブは主に答えて言った。2あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。 「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そう とするとは。」そのとおりです。私には理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。 「聞け、わたしが話す。お前に尋ね る、わたしに答えてみよ。」 あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自 分を退け、悔い改めます。

旧約聖書のヨブ記は、一つの劇のように読む事が出来ます。そこには対話とナレーションがあります。ヨブと名付けられた実際の人がアブラハムとヤコブの時代 に生きたかも知れません。その場合、ヨブ記は彼の人生に基づいている書物で、彼の人生の苦しみと格闘について語った物です。確かにこの本は聖霊によって書 かれた本です。人間の愚かさと神様の知恵が書かれています。人間の冷たさと神様の愛があります。又、サタンの悪と主なる神様の憐れみがあります。 

ヨブ記の最初はヨブを紹介します。とってもけいけんで神様を信じる人です。又、とっても金持ちで成功した人です。主なる神様とサタンとの対話があります。 神様はヨブの事を誇りに思っています。しかし、サタンはヨブをテストしたいと思います。「サタン」と言う名前は、「告発者(こくはつしゃ)」と言う意味で す。もしヨブが苦しめられましたら、ヨブは神様を呪いますか。神様を冒涜するでしょうか。ヨブはとっても金持ちです。そのすべての財産が彼から奪い去られ ましたら、ヨブの幸せがその富にあるのか、それとも神様にあるかをためす事が出来ます。神様からの許しを得て、サタンはその働きを始めます。まず、ヨブの 家畜が全部泥棒に奪われて、十人の子供全部が集まった家が嵐によって破壊されて殺されました。ヨブは大変悲しみましたが、このように言いました。

 ヨブはそのテストに負けませんでした。それでサタンは更にヨブをテストする為に、体に大変な痛みを送りたいと思いました。神様はそれを許しましたが、サタンはヨブを殺してはいけませんでした。ヨブはこのように反応しました

  ヨブの3人の友達が訪ねます。一人ずつ長いスピーチをして、ヨブは各スピーチに答えます。それは裁判のようです。3人はヨブを罪人として告発して、ヨブが 罪人であるので神様は彼を罰すると言います。しかしヨブは自分の無罪を強調して、神様が自分を罰する事が正しくないと言います。それでヨブはその三人のサ タンのような告発者 に対して腹を立て、神様のやり方を理解する事が出来ません。これがヨブ記の中心です。その質問とは、どうして良い人が苦しむかと言う問題です。3人の友達 が言うのは、ヨブは確かに悪い人か罪人であるので、神様の罰を受けます。しかしヨブは自分が無罪であると言います。なぜヨブが苦しむのか誰にも分かりませ ん。最後に神様は語ります。38章から41章までを読めば、とっても奇麗です。神様は全世界の全能の造り主です。神様はすべてを知ります。人間は神様の働 きを理解するのは不可能です。サタンがヨブをためしている事をヨブに教えません。それは必要ではありません。ヨブは神様と神様の知恵を完全に信頼しなけれ ばならないからです。

最後にヨブは自分の苦しみの理由を探すのをやめます。そしてけんそんに神様の知恵を受けいれます。

最後に神様はヨブの財産を2倍にして返しました。新しい10人の子供を与えました。そしてヨブは140歳まで生きました。 

ヨブ記のメッセージとは、「自分がどうして苦しんでいるか分からなくても、神様を信頼しなさい」という事です。神様を信頼しなさい。神様はその理由が分かります。御自分の知恵によって神様は私達を愛します。ですから私達には希望があります。 

私自身にはヨブと同じ経験がありません。彼の痛みと悲しみと怒りを想像する事しか出来ません。彼は正義が欲しいと思いました。その意味が分かりたいと思いました。自分の苦しみの理由が分かれば、それを受け入れます。それで希望を持つ事が出来ます。 

例えば私の背中が痛いです。どうしてでしょうか。昨日、重い家具を動かしたからです。では痛み止めの薬を飲みますと、明日になりますと楽になる希望があります。 

先週の説教のテーマは希望でした。病気で死にそう12歳の娘のお父さんの希望と12年間病気で患った女の人の希望です。イエス様に希望がありました。イエス様の愛と憐れみを望みました。 

聖パウロには多くの問題がありました。伝道活動の為に問題がりました。又、言われる「身に一つのとげ」(2コリント12:7)の問題もありました。私達は その問題が何であったか分かりませんが、確かに痛い体の病気か怪我でしょう。癒してもらうように祈りましたが、最後に神様からの事として受け入れました。 その時神様の憐れみと愛を信頼しました。自分の心に平安がありました。希望を見つけました。 

この点では聖パウロとヨブは同じです。神様の知恵を信頼した時に希望を見つけました。ヨブは造り主なる神様を見つけました。聖パウロは救い主なる神様を見 つけました。私達はこの同じ神様を見つけます:造り主であり、救い主であり、助け主であります。私達はイエス様を見つけました。イエス様はヨブのように苦 しみました。イエス様もサタンに試されました。しかし、ヨブと違って、イエス様は神様の御計画を知りました。サタンが何をしているか分かりました。ですか らイエス様には希望がありました。荒れ野で誘惑された時も望があり、逮捕され裁かれた時にも希望があり、十字架に釘でつけられた時にも希望がありました。 この希望が試されましたが、確かなものでした。3日目に復活しました。 

私達にも同じ希望があります。人生にはどんな事があっても希望があります。即ち、神様が私達を愛して私達を大事にする希望です。神様の知恵とは、宇宙を創 造された知恵です。その全能の知恵は私達を守って私達を支えます。この希望はイエス様の十字架に基づいています。私達が洗礼を受ける時のイエス様の約束に 基づいています。聖パウロが言う通りです。「神様の恵みは自分に十分である」(2コリント12:9)。

Saturday, July 19, 2014

イエスは良い羊飼いです

司教ダニエルは説教します。





ヨハネ10:11-18
10:11 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導 かれ、一つの群れになる。10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わた しが父から受けた掟である。」



聖書の中には、羊の使い方が大体3つありました:そのウールの毛、食肉として、又、犠牲の為でした。それで羊は大事なものでした。羊飼いは自分の羊を守ら なければなりませんでした。先ず、狼のような野獣がいます。狼は羊を奪って食べて、羊の群れを追い散らします。その恐ろしい狼と戦ち向かうのは、勇気のあ る羊かいだけです。若い時のダビデ王は、自分のパチンコや鞭と杖を持って自分の羊の群れを守りました。雇い人でしたら、自分自身を守って狼から逃げます。 しかし羊のオーナーである羊飼いは、その羊の為に特別な思いを持ちます。経済的な思いだけではなく、ペットに近い愛情がありました。羊飼いと羊の間には、 信頼関係もありました。イエス様はその事をこのように言われました、「10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」羊に対してもう一つの危険は泥坊でした。又、もう一つの脅(おど) しとは、神殿で犠牲となって、死ぬ可能性です。 

私達の為にこの福音書の意味を見ましょう。私達はその羊であり、イエス様は私達の良い羊飼いです。私達のウールや食肉として、又犠牲の為に、イエス様が私 達を飼いません。それでは、なぜ私達を飼うでしょうか。私達に羊飼いが必要だからです。私達は守りと導きが必要です。そして私達とイエス様の間には信頼関 係があります。イエス様はその事をこのように言われました。「10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」 

今日も狼がやってきます。私達を奪ったり、食べたり、群れを追い散らしたりします。現代的な狼は、羊の毛を身につけてひそかに来ます。インターネットのア イデンテティの泥坊のようです。ある人はこのようにして全を失ないます。だまされます。法律的に大丈夫みたいでしても、第9の戒めを破る事です。人は犠牲 のようになります。例えば、会社がその人の苦労の働きを利用して、その人に生きる為に必要なサラリーなどを十分与えない時です。又、宗教的なカルトもあり ます。神様の羊を奪って、その永遠の救いを奪い取ります。ですから教会の中で、私達はいつも神様の律法と福音を、忠実に説教したり教えたりします。それは 良い羊飼いの群れの中で信者達を守る為です。

しかし先に言ったように、羊の為のもう一つの危険とは、神殿での犠牲です。無罪、シミもない羊は、罪を赦す為に祭壇の上に燃やされました。もしあなたはシ ドニー姉と同じように考えて、それが恐ろしいと思いましたら、あなたはこの聖書の箇所を正しく聞いています。人間の罪の為に無罪の羊を殺す事がひどいこと だと思いましたら、神様に取って罪がどんなにひどいかを、理解することが出来るでしょう。聖なる神様は、私達も聖なる者であるように要求します。聖書の中 では、神様は罪人の為に死ぬ事を命令します。それで、私達の罪の為に、私達も死ぬようにと神様は要求します。それは正義や義や正しい事と呼びます。 

しかし愛と憐れみを持って、神様は罪人が神様の罰から逃れる方法をもうけました。人が死ぬ事の代わりに、羊がその代わりに死ぬ事です。人の罪がその羊にう つされます。このようして、人が聖なる者になりますが、羊は罪深い存在となりましたので、死ななければなりません。聖書の中では、これは犠牲や贖いと呼び ます。しかし、世のすべての罪を赦す為に、世のすべての羊だけではまだ足りません。しかし、愛と憐れみを持って、神様は罪人が神様の罰から逃れる方法をも うけました。人が死ぬ事の代わりに羊が死にます。この羊とは、世の罪を取り除く神様の子羊です。イエス・キリストは御自分の上に私達の罪を取って、私達の 代わりに死んで下さいました。このようにして、私達は聖なる者になりますが、神様の子羊は罪深い存在となって死ななければなりません。この理由でイエス・ キリストは十字架上で殺されました。これは犠牲と赦しと贖いと救いと自由と呼びます。

イエス様は言われました、「10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」イエス様を知る私達は、自分の罪を告白します。イエス様が私達の罪 を取り除く、神様の子羊であるので神様に感謝します。彼が私達の救い主、又良い羊飼いであるので喜びます。イエス様の守りの中で生きるのです。イエス様は 悪より私達を守ります。私達が神殿の祭壇での犠牲にならないように私達を救い出して下さいました。 

イエス様は言われました、「10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導 かれ、一つの群れになる。」  教会の中にまだ入っていない羊がいるので、今日の福音書は伝道の為の呼びかけもなります。イエス様はその人々の羊飼いでもあります。神様はその人 をも愛して守りたいと思います。れで私達の教会の中になくても、私達は私達の良い羊飼いのように私達も羊飼いとなって、その子羊をも守ります。すべての 人々の人権と尊さを守ります。無罪の人が殺されたり、悪に利用されたりする事が恐ろしいと感じます。ひどいと思います。人間が羊よりはるかに尊いもので す。それで必要のある人々の為に祈って、支えます。私達の良い羊飼いであるイエス様へと導かれています。

Monday, July 14, 2014

マタイ 11:28~30





福音書 マタイ 11:28~30 
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。


今日の福音書の日課は、純粋な福音です。喜ばしい良い知らせです。昔から多くのキリスト信者達に、希望と慰めと平和と力と喜びと安心を与えました。「疲れ た者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」すべての人々には重荷があります。皆には荷物があります。仕事や責任があり ます。心配を始め、病気、痛み、悲しみ、後悔、恐れがあります。イエス様の言葉は、やすみと平和を得るためへの招きです。 

しかし、この世のやかましくて空しい約束があるので、イエス様の言葉が聞こえません。永遠の平和の代わりに、一時的な解放や展開しかありません。そのもの が別に罪深い訳ではありません。この世の綺麗なものと良いものは神様からの恵みです。友達や薬によって助けられます。しかし、ある時、心配とか痛みがひど くて、何も役に立たないみたいです。失望は地獄のようです。イエス様を諦めましたら、それは地獄です。 

イエス様の言葉が純粋な福音であるのは、イエス様が私達と共にいるからです。「わたしのもとに来なさい」と言われます。イエス様は私達の問題の責任を感じ るからです。私達の痛みを感じるからです。イエス様は私達の問題が分かります。これが素晴らしい良い知らせであるのは、イエス様は御自分の上にこの世の罪 を取って、世の痛みを取って、世の重荷を取って十字架上で死にました。御自分の上にその重荷がありましたが、イースターの朝に甦った時、その罪を全部後ろ に捨てました。その罪が死にました。イースターに復活した時、癒しと命がありました。 

詩篇23篇は同じ事をいいます:「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ」。 

イエス様は言われました、「わたしは柔和(にゅうわ)で謙遜(けんそん)な者だから、わたしの軛(くびき)を負(お)い、わたしに学びなさい。そうすれ ば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」イエス様のくびきを見つける時、魂の安らぎを見つけます。くびきが分かりますか。首のカラーの一 種です。鋤やワゴンを馬や牛に引っ張る時、その働物をそのワゴンやカートにつながなければなりません。つなぐ為にくびきを使います。牛の首と肩にかけます ので、その牛の力が全部をそのワゴンを引っ張る力になります。くびきのサイズが大切です。大きいと落ちるでしょう。小さいと牛の首を絞めるでしょう。ス ムーズでなければ、牛の皮膚を切るでしょう。丁度良いフィットでしたら、楽になり、簡単に負い易くて、簡単にそのワゴンを引っ張る事が出来ます。イエス様 が「わたしの軛は負いやすく」と言われる時、その意味です。イエス様の助けによって、私達の人生の問題がより易く扱います。そして、イエス様の助けによっ て、私達の重荷がより軽くなります。

本当です。私の経験ですが、祈りますと、私の問題が軽くなります。祈りによって私の問題をイエス様の所に持って行きますと、イエス様は私を助けて下さいま す。又、歌を歌う事も役に立つと私には分かります。歌は祈りですし、神様の愛を思い起こすものです。ですから、私達が好きな賛美歌や聖歌の一節や二節を覚 えて置くべきです。祈りと歌は、私達をイエス様につなぐくびきです。礼拝も素晴らしいです。罪の告白と赦しによって、その古い罪の重荷を下ろして捨てま す。聖餐式によって、信仰の為の力と毎日のイエス様との人生の力をももらいます。 

暗記すれば素晴らしい聖句が沢山あります。今日の福音書の箇所をも覚えましょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて あげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、 わたしの荷は軽いからである。」
アーメン。

Sunday, June 29, 2014

キリスチャンの愛

わたしは、しいいましめをあなたがたにえる、いなさい。わたしがあなたがたをしたように、あなたがたもいなさい。 うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべてのめるであろう。 ヨハネ 13:34-35

Sunday, April 6, 2014

聖書 マタイによる福音書 25章31節~46節








地獄の火を免れるための善行?
 「最後の審判において起こること」というのが今日の説教題です。「最後の審判」という言葉を聞いて、喜びが湧き上がってくるという人、ここにおられますか。心躍らせながら、「ああ、最後の審判が待ち遠しい」と言う人はおられますか。恐らくほとんどいないことでしょう。この説教題は、今日の福音書朗読から取ったものです。今日の福音書朗読を聞いて、心が平安に満たされた人はおられますか。決して多くはないことと思います。というのも、イエス様がなさったお話は、かなり恐ろしい話ですから。最後に羊と山羊に分けられるというのでしょう。そして、羊には「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と語られる。山羊には「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」と言われる。そこでどうしても考えざるを得ないではありませんか。わたしは羊になるか、山羊になるか、と。ましてや、「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」という、具体的な愛の行いが裁きの基準であるようだと知りますと、たちまち自信が持てなくなります。となりますと、山羊の側になるかもしれないのですから、これは本当に恐ろしい話であるということになります。
 もちろん、「恐怖」は時として強烈な善行への動機付けとして働きます。地獄絵がただ恐怖を与えることが目的ではなく善行を促す教育的な意味があったのと同じように、今日の箇所も小さき者への愛の行いを動機付ける物語として読むことができるでしょうし、実際にしばしばそのように読まれてきました。最後に至るまでは人は自分のしたいように生きることができる。しかし、最後には王なるキリストの前に立つことになるのだ。人生を判断するのは人間ではなくまことの裁き主であるキリストである。そこで山羊の側になりたくなかったら、生きている間に、自分が為しえる間に、実際に行動をもって「最も小さい者」に愛を表さなくてはならない、というように。そのように、「恐ろしい話」が必ずしも悪いものとは限りません。私たちには時として恐ろしい話も必要です。それは分かります。
 しかし、この「恐ろしい話」を読んで、最後の審判において羊の側にならないために、地獄の火を逃れて神の国に入るために、あたかも保険をかけるかのように、善行や隣人愛の行為を一生懸命に積み立てるとするならば、それはそれで何か変だと思いませんか。確かに、悪いことをするよりは、善いことをする方が好ましいに違いないのですが、それでも動機と目的がただ「自分の救いのため」ということであるならば、何かがおかしい。そう思いませんか。それではまるで自分が救われるために他の人を踏み台にするようなものではありませんか。それはもしかしたら愛の名を借りた究極のエゴイズムとも言えるかもしれません。そのようなことのために、イエス様がこの話をしているのでないことは明らかでしょう。
 そもそも、それではここに出て来る羊たちとは全く違う姿になってしまうのです。考えてみてください。「最も小さい者にしたことはイエス様に対してしたことになるんだ。今、この人にしていることも、イエス様にしていることになるんだ。これまで随分《イエス様に対して》善いことをしてきたはずだ。もう既に相当ポイントが貯まっているはずだ。このままいけば確実に羊の側に違いない」と思いながら、そのように人生を送って、やがて王なるキリストの前に立ったとしたらどうでしょう。ここに出て来る羊たちとはかなり違ったことを言うのではありませんか。
 彼らはこう言っているのです。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」(37‐39節)。いいえ、あなたのためになど、何一つしておりません、と彼らは言っているのです。そう言って驚いているのです。ポイントが貯まっているはずだと思っている人は、そうは言いませんでしょう。「最も小さい者の一人にしたのは、あなたにしてあげたことになるんですよね!わたしはあなたのためにかなり働いたし、あなたに対する愛の業に励んできたと思うのですが」。そう言うのではありませんか。そのように、山羊の側にならずに羊の側になるために愛の行いに励むとしますと、結果的にはここに出てくる羊たちと同じにはならない。似ても似つかぬ者となってしまうのです。やはり何かがおかしい。
最も小さな者の一人であるわたしとして
 そこで改めて私たちの立ち位置を考えてみる必要があろうかと思うのです。聖書というものを教訓や戒めのための書物だと思っていますと、どうしてもこのような例え話を読むにしても、「私たちはどうすべきか」ということにまず考えが行ってしまいます。そして、この場合、「最も小さな者の一人」に対して何を為すべきか、というように、「何かをしてあげる側」に身を置いてこの話を読んでしまいやすいのです。
 しかし、それが唯一の立ち位置なのではありません。私たちは「飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をする」側に立つこともあるでしょうが、もう一方で「お世話をされる」側に立つこともあるのではありませんか。食べさせてもらったり、癒してもらったり、お見舞いしてもらったり、助けてもらったり。自分では何一つ為しえない状況で、苦しんで悩んで、他の人から助けてもらうしかなくて、本当に自分の無力さや小ささを痛感せざるを得ない状況に置かれることだってあるのでしょう。そして、信仰者として、もちろん他の人に対してどうするかということも大きな課題でしょうが、それと同じくらい大きな課題は、まさに「最も小さい者」となった時、あるいはそのようにされた時、いったい何を考えるのか、ということなのではありませんか。そのように「最も小さい者の一人」の場所に立ってこの話を聞くことも必要なことなのです。
 事実、イエス様は別の箇所で弟子たちのことを「小さい者」と呼んでいるのです。同じ福音書の10章において、イエス様はこのように言っておられるのです。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(10:42)。実際、初期の教会の構成していた人たちの多くは奴隷の身分の人たちであったり、この世的には極めて低い立場にあった人たちであり、人々から卑しめられてきた人たちであったのです。また伝道者たちも、まさに物乞いのような有り様で、行くところ行くところで人々のお世話になりながら伝道を続けていたのです。ですから、イエス様の弟子たちにせよ、後のキリスト者にせよ、ここで語られている「最も小さな者の一人」は、決して誰かどこかの他の人ではなかったのです。どうしてもこの「最も小さな者の一人」に身を置いて聞かざるを得なかったのです。
 そのように、私たちもまずはこの「最も小さな者の一人」のところに身を置いて、この福音の言葉を聞いたら良いのです。様々な場面で、飢えたり渇いたり、世話にならなくてはならない私たち。どんなに強がってみても、実際にはしばしば牢に捕らわれて身動きできないような状態の私たち。そのような私たち自身をそのまま持ってきて、イエス様の言葉を聞くのです。するとそこでイエス様がこう言ってくださるのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と。
 どんなに小さな者であろうが、無力な者であろうが、イエス様は「これはわたしの兄弟だ」と言ってくださる。そのようにして私たちの傍らに立たれるのです。そして、私たちが助けを受けるならば、イエス様御自身が受けたかのように感じてくださる。私たちが、誰かの愛情に接して心温まる喜びを感じたならば、イエス様がその愛の行為を受けたかのように共に喜んでくださるのです。またもう一方で、私たちが不当な扱いを受けるなら、私たちが蔑ろにされたり、軽んじられたりするならば、イエス様御自身が蔑ろにされたり軽んじられたりしたかのように怒ってくださるのです。「永遠の火に入れ!」とは実に激しい言葉ではありませんか。しかし、それほどにイエス様は怒ってくださるのです。そのように、私たちはイエス様の兄弟であり、イエス様は私たちと御自分とをいわば同一視してくださるのです。それがここで語られていることなのです。
 そのように、まずは私たち自身の傍らに立って、「これはわたしの兄弟だ。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言ってくださるイエス様を知ることです。私たちをどれほど大切に思っていてくださるかを思うことです。最後の審判においてまで、そう言ってくださるほどに、大切に思われているのです。
 そのように私たちの傍らに立ってくださるイエス様が見えてきますと、もう一つのことが見えてくるはずなのです。他の人の傍らに立っているイエス様です。イエス様が私たちを大切に思ってくださったように、主は他の人たち、私たちの周りの人たち、特に助けを必要としていたり愛されることを必要としている人たちについてもこう言われるのです。「これはわたしの兄弟なのだよ。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだよ」と。
 この例え話をしておられるイエス様が望んでおられることは、そこから始まっていくのです。地獄の火を免れるための保険でもない、神の国に入るために一生懸命に貯えたポイントでもない、いかなる形においても自分自身に栄光を帰さない、もしかしたら自分の記憶にさえも残らない愛の行いが、小さいながらもそこから始まるのです。そして、それはたとえ小さなことであっても、決して主の目に軽んじられることはないのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と主は言われるのですから。そのことを思いながら生きてこそ、はじめて私たちもまた、ここに出て来る羊たちと同じようになれるのでしょう。やがて王の前で、私たちはその時に驚きの声を上げることになるのでしょう。「え?いつわたしたちはそんなことをしましたか?」と。それは何と喜ばしい驚きであることでしょう。

Sunday, March 16, 2014

名古屋のホームレス Nagoya Homeless


名古屋 名城公園


栄地下鉄駅



愛知県と名古屋市にはホームレスのデイセンターやシェルターを持っていません。デイセンターや避難所、食事、安全、シャワー、洗濯のためにホームレスの場所を提供します。デイセンターはホームレス生活技能を教える。ホームレスが自立するために、これらのライフスキルを指導します。ホームレスは彼らが困難な状況にあり怠け者ではありません。手助けは解決ではありません。解決はホームレスが独立していくように教えるのがデイセンターです。
ホームレスに安全なサービスを提供します。また、ホームレスがもとの生活を取り戻すためにチャンスを得ます。私たちは、避難所、食糧、衣類、とシャワーを提供します。さらに重要なことはホームレスから自立するために、ホームレスの依存関係から脱却することでもとの生活を取り戻すことになります。
あなたの寄付は、フルサービスのデイセンター、食品、その他の必需品を提供するのに役立ちます。

The Homeless in Nagoya have no shelter or day center.  They must sleep where they can find space.  Under highway overpasses, parks, train stations, and even on the sidewalk.  Something must be done about this.  Our solution is to work with Nagoya area churches to create a day center.  Here they could eat meals, shower, wash clothes, and seek rest from the weather.  
Our goal is not to "help" the homeless, this only perpetuates the problem.  Our mission is to end homelessness in Nagoya by assisting the homeless to regain their independence.

Wednesday, January 1, 2014

明けましておめでとう




明けましておめでとうございます。神の祝福がありますよう。