日本ピューリタン教会 We Are the Japanese Puritan Church

Monday, July 14, 2014

マタイ 11:28~30





福音書 マタイ 11:28~30 
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。


今日の福音書の日課は、純粋な福音です。喜ばしい良い知らせです。昔から多くのキリスト信者達に、希望と慰めと平和と力と喜びと安心を与えました。「疲れ た者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」すべての人々には重荷があります。皆には荷物があります。仕事や責任があり ます。心配を始め、病気、痛み、悲しみ、後悔、恐れがあります。イエス様の言葉は、やすみと平和を得るためへの招きです。 

しかし、この世のやかましくて空しい約束があるので、イエス様の言葉が聞こえません。永遠の平和の代わりに、一時的な解放や展開しかありません。そのもの が別に罪深い訳ではありません。この世の綺麗なものと良いものは神様からの恵みです。友達や薬によって助けられます。しかし、ある時、心配とか痛みがひど くて、何も役に立たないみたいです。失望は地獄のようです。イエス様を諦めましたら、それは地獄です。 

イエス様の言葉が純粋な福音であるのは、イエス様が私達と共にいるからです。「わたしのもとに来なさい」と言われます。イエス様は私達の問題の責任を感じ るからです。私達の痛みを感じるからです。イエス様は私達の問題が分かります。これが素晴らしい良い知らせであるのは、イエス様は御自分の上にこの世の罪 を取って、世の痛みを取って、世の重荷を取って十字架上で死にました。御自分の上にその重荷がありましたが、イースターの朝に甦った時、その罪を全部後ろ に捨てました。その罪が死にました。イースターに復活した時、癒しと命がありました。 

詩篇23篇は同じ事をいいます:「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ」。 

イエス様は言われました、「わたしは柔和(にゅうわ)で謙遜(けんそん)な者だから、わたしの軛(くびき)を負(お)い、わたしに学びなさい。そうすれ ば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」イエス様のくびきを見つける時、魂の安らぎを見つけます。くびきが分かりますか。首のカラーの一 種です。鋤やワゴンを馬や牛に引っ張る時、その働物をそのワゴンやカートにつながなければなりません。つなぐ為にくびきを使います。牛の首と肩にかけます ので、その牛の力が全部をそのワゴンを引っ張る力になります。くびきのサイズが大切です。大きいと落ちるでしょう。小さいと牛の首を絞めるでしょう。ス ムーズでなければ、牛の皮膚を切るでしょう。丁度良いフィットでしたら、楽になり、簡単に負い易くて、簡単にそのワゴンを引っ張る事が出来ます。イエス様 が「わたしの軛は負いやすく」と言われる時、その意味です。イエス様の助けによって、私達の人生の問題がより易く扱います。そして、イエス様の助けによっ て、私達の重荷がより軽くなります。

本当です。私の経験ですが、祈りますと、私の問題が軽くなります。祈りによって私の問題をイエス様の所に持って行きますと、イエス様は私を助けて下さいま す。又、歌を歌う事も役に立つと私には分かります。歌は祈りですし、神様の愛を思い起こすものです。ですから、私達が好きな賛美歌や聖歌の一節や二節を覚 えて置くべきです。祈りと歌は、私達をイエス様につなぐくびきです。礼拝も素晴らしいです。罪の告白と赦しによって、その古い罪の重荷を下ろして捨てま す。聖餐式によって、信仰の為の力と毎日のイエス様との人生の力をももらいます。 

暗記すれば素晴らしい聖句が沢山あります。今日の福音書の箇所をも覚えましょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて あげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、 わたしの荷は軽いからである。」
アーメン。

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