そして、「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て」、フィリポにこう言いました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよ
いだろうか」(5節)。イエス様は群衆を見ていました。群衆が空腹であることを思っていました。彼らのことを心配していました。しかし、イエス様は一人で
考え一人で彼らのことを思うのではなくて、弟子たちにも一緒に考え、一緒に彼らのことを思って欲しかったのでしょう。この言葉によって、イエス様について
きたフィリポは、イエス様と同じ方向に向けられ、人々と向き合わされることになりました。これまでよその人々だった彼らと、関わりを持たざるを得なくなっ
たのです。
横からアンデレが口をはさみます。彼もまた、人々と向き合わされて、いろいろと考えたのでしょう。考えるだけでなく行動もしてみました。食べ物を
持っている少年を見つけてきたのです。しかし、結論は一緒でした。「ここに大麦のパン五つと魚二匹を持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人
では、何の役にも立たないでしょう」(9節)。やはり足りない。何の役にも立たない。
そのような言葉から彼らの姿勢が見えてきます。既に腰が引けています。イエス様がせっかく向き合わせてくださったのに、人々と関わることを放棄し始めて
います。手を引こうとしています。他の福音書を見ますと、弟子たちはイエス様にこう提案しています。「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周り
の里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」(マルコ6:36)。――イエス様、彼らを解散させてくださいよ。自分のことは自分で、ということで。私
たちは自分たちのことだけを考えましょうよ。要するに、そう言いたいわけです。
「自分たちだけのことを考えましょうよ。」今日の教会も、同じことを言っているのかもしれません。外に目を向けることによって、結局は自分の貧しさ
と向き合わざるを得なくなるならば、むしろ自分たちのことだけを考えていましょうよ、と。そうやって、内向きの教会となって、自分たちに居心地のよい集ま
りを求め、自分たちの存続のことだけを考えていれば、確かに自分たちの貧しさや無力さと向き合う必要はないかもしれません。個々のキリスト者についても同
じことが言えるかもしれません。内向きのクリスチャン。他の人の救いのことなんて考えないで、人々と向き合ったり関わりあったりしないで、自分の心の平
安、自分の喜び、自分の人格的な成長だけを考えましょうよ、と。人々と向き合わなければ、愛することのできない自分の貧しさや、助けることのできない自分
の無力さに悩む必要もありません。確かにそうです。
しかし、イエス様はそのような私たちであって欲しくないのでしょう。イエス様が考えているあの人のこと、この人のことを、一緒に考えて欲しいのでしょ
う。この滅びに瀕して苦しんでいる世界と一緒に向き合って欲しいのでしょう。あのフィリポのように、私たちもまた、本当はもう向き合うべき人と既に出会わ
されているのではありませんか。それは家族かもしれないし、友人かもしれない。関わりあったら自分の無力さばかりが見えてきて惨めになるから、見ないよう
にしてきた人々かもしれません。イエス様は言われるのです。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と。
しかし、そのように言われるイエス様なのですが、実は聖書の言葉はこう続いているのです。「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分は何をしようとしているか知っておられたのである」(6節)。
当たり前の話ですが、イエス様は自分がどうしたらよいのか分からなくて、弟子たちに相談したわけではありません。また自分の手に負えないから、その責任
を弟子たちに丸投げしたわけでもありません。イエス様は、弟子たちが持っているものではどうにもならなことは分かっておられるのです。弟子たちは貧しさを
覚えたことでしょう。自分の無力さを思ったことでしょう。しかし、弟子たちの貧しさや無力さなど、イエス様は初めから分かっておられるのです。イエス様は
御自分で何とかするつもりでおられたのです。
なぜなら、このパンの奇跡はそれ自体がメッセージなのであり、イエス様がいかなる御方かを指し示すしるしであったからです。今日はお読みしませんでした
が、この同じ章の後の方で、イエス様はこう宣言しているのです。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じ
る者は決して渇くことがない」(35節)と。イエス様こそ、人間の根源的な飢えと渇きを癒す御方であること、イエス様こそ永遠の命を与えて救うことのでき
る御方であることを宣言されるのです。そのために自分の命さえも献げ尽くして、分け与えてしまおうとしておられたのです。そのように、イエス様はすべて御
自分でなさるおつもりだったのです。
しかしだからと言って、イエス様は「わたしがすべてやるからお前たちはあっちに行っていなさい」とは言われないのです。イエス様は、あくまでも「一緒に
やろう」と言ってくださる。あの弟子たちにも、そしてここにいる私たちにも。そのようなイエス様の思いが、この物語にははっきりと見て取れます。
考えて見てください。どうせ奇跡によってパンを与えるならば、何もないところからパンを出した方がもっとセンセーショナルでしょう?イエス様にはできた
と思います。わたしはそう信じます。無から有を生み出すことだってできたに違いない。しかし、イエス様はそのようにはなさいませんでした。イエス様は、子
どもが持っていた五つのパンと二匹の魚を受け取られたのです。そして、感謝の祈りを捧げ、パンを裂いて分け始めました。考えてみれば、いかにも滑稽でしょ
う。男だけ数えても五千人もいるのです。そんな大群衆の前でそれをやったのです。いったいそんなことして何になるのさ、と思えるようなことをあえてやった
のです。――すると、そこに神の御業が現れて、人々は完全に満たされた!
弟子たちはこの出来事を忘れませんでした。いや忘れようにも忘れることができなかったに違いありません。なぜならその後の弟子たちの経験、後の教会の経
験は、まさにそのようなことの連続だったからです。教会がやってきたことは、まさに「こんなことして何になるのさ」と思えるようなことばかりではありませ
んか。その最たるものは、洗礼と聖餐でしょう。水の中に一回ぐらい沈めたり、頭に水をかけたぐらいで、いったいそれが何になりますか。僅かばかりのパンを
分かち合って食べて、それがいったい何になりますか。今日も聖餐が行われます。こんなパンのかけらみたいのを食べたからって、それがいったい何になるで
しょう。この世の目から見たら、まさにそうでしょう。しかし、教会がそんなことを二千年も続けるなかで、まさにあの時のように、神の御業が現されてきたの
です。命のパンであるキリストが分かち合われ、人々はまさに神の与えてくださるものによって、生かされ、満たされ、救われてきたのです。
また、ヨハネによる福音書は特に、この五つのパンと二匹の魚が、少年の持っていたものであったと伝えています。わたしは本人の同意なく、イエス様が勝手
にパンと魚を取り上げて分けてしまったとは思いません。その子がイエス様に差し出したに違いない。アンデレが「何の役にも立たないでしょう」と言っている
のに、その子はパンと魚を差し出したのです。そして、主は喜んでその差し出されたパンと魚をお用いになられたのです。それはアンデレに、また他の大人たち
に見せるためだったのかもしれません。大人はどうしても「こんなものが何になるのか。何の役にも立たないでしょう」というのが先に来てしまうのです。そう
やって献げることを躊躇するのです。しかし、子どもはそうではありません。
大好きな人にだったら、なめて半分になった飴だって「これあげるね」って差し出
すのです。
しかし、やがてその弟子たちも、結局はあの少年と同じようになって行ったのです。弟子たちは後に復活したキリストから、「全世界に行って、すべての造ら
れたものに福音を宣べ伝えなさい」と命じられることになりました。五千人どころか、全世界と向き合わされることになったのです。彼らは貧しい一握りの弟子
の群れに過ぎません。自分たちの持っている何を見ても、「何の役にも立たないでしょう」としか思えなかったに違いありません。自分自身を見てもそうでしょ
う。皆、キリストが十字架にかけられた時に、見捨てて逃げてしまったような弟子たちです。「こんな私、何の役にも立たないでしょう」と言わざるを得ないで
しょう。しかし、それでも彼らは自分の持てるものを、自分の能力を、自分自身を、そのまま献げたのです。子どものようになって!キリストはそれをすべて受
け取って、命のパンを世界に与えるために用いられたのです。それが教会の歴史です。
私たちもまた、キリストに差し出してみたらよいのです。自分の持てるものを。自分自身を。キリストが用いてくださいます。この世界に命のパンを分かち与
えるために。私たちが向き合うようにと出会わせてくださった人々に、命のパンを分かち与え、生かし、救うために、きっと用いてくださいます。
"Jesus lifted up his eyes and saw a great crowd of people coming to
him," and then he says to Philip, "Where should we buy bread to feed
these people?," (verse five). Jesus was looking at the crowd. He felt
that the crowd was hungry. He cared about them. However, Jesus was not
thinking by himself, he was not by himself in his having thoughts about
them, he was thinking about them along with the disciples, he was
wanting them to think with him about the crowd. According to the
statement, Philip, who had been following Jesus, was directed in the
same direction as Jesus and was facing towards the people [because he
had been led to]. He could not help having a bond with them, [though]
they were strangers [to him] so far.
From the side Andrew cuts into the conversation. He, too, was facing
the people, and was probably having all kinds of thoughts. He didn't
just think, he also tried to do something. He had found a boy who had
some food. But, [his] conclusion was the same [as Philip's]. "Here's a
boy who has five barley breads and two fish. However, with as big a
crowd as this, it wouldn't be of any use," (verse nine). After all is
said and done, it ain't enough. It won't be of any use.
Their attitudes are visible from those kinds of statements. They
were already fainting. Even though Jesus took great trouble to have them
come face to face with things, they were beginning to quit for good in
having anything to do with the people. They were about to pull out. When
we look at another gospel, the disciples make the following proposal to
Jesus. "Please let the people disperse. By doing so, they will go to
the nearby villages and countryside to buy something to eat," (Mark
6:36). -- Hey Jesus, please let them all go. Our business is us. Let's
just think about ourselves. In short, that's what they are wanting to
say.
"Let's just think about ourselves." Even churches today may be
saying the same thing. Besides by directing our eyes else where,
eventually, when we cannot avoid coming face to face with our own
poverty, instead we say, let's think just about ourselves. Thus, as the
church becomes introverted, when [the people] seek a comfortable meeting
for themselves and think only of their own continuation, they may [feel
like they do] not need to come face to face with their own poverty and
powerlessness. The same thing could be said about individual Christians.
Christians [can become] introverted. They do not think of the salvation
of other people. They never have anything to do with or come face to
face with others, but say, let's think just of our own peace of mind,
our own joy, our own personal growth. If we don't face others, we have
no need to be troubled over our poverty in not being able to love and
our powerlessness in not being able to help. That certainly is the way
it is.
But, Jesus does not want us to be that way. Jesus wants us to
think with him about each and every person that he is thinking of. Right
along with him he wants us to come face to face with the world that is
suffering and on the verge of destruction. Just as Philip [had to],
haven't we already been made to encounter the people we are supposed to
come face to face with? It may be family, it may be friends. It may be
the people that we have [decided] not to see because when we have to do
with them, only our own powerless came out into the open, and we became
miserable. Jesus says, "Where should we buy bread to feed these people?"
Now, Jesus did speak that way, but the words in the scripture
actually continue with "The reason he said that was to test Philip, but
he knew what he himself would do," (verse six).
The whole thing seems reasonable enough, that Jesus consulted
with the disciples not because he doesn't have a clue about what he
himself ought to do. Neither is he passing the whole task onto the
disciples because he cannot manage it himself. Jesus understands that
what the disciples have will be futile. The disciples will get a sense
of their poverty. They will feel their own powerlessness. But, from the
start Jesus understands the poverty and the powerlessness of the
disciples. Jesus had planned on doing something [the whole time].
For, the miracle of the bread per se was a message, it was a sign
that pointed to what kind of person Jesus was. I didn't read it to you
today, but after this in this same chapter, Jesus makes the following
announcement. "I am the bread of life. Anyone who comes to me will never
hunger, and anyone who believes in me will never thirst," (verse
thirty-five). Jesus proclaims that he himself cures the basic hunger and
thirst of humanity, and that he himself is able to save and grant
eternal life. For that purpose he was willing to give out even his own
life and devote it as an offering completely. Thus, Jesus intended to do
it on his own.
While that is true and all, yet, Jesus does not say, "Since I am
doing it all, you, go over there." Through and through Jesus says,
"Let's do it together." Whether to the disciples or to us here in this
place. [We can] clearly grasp these thoughts of Jesus from this
narrative.
Please give it some thought. Would it be more sensational to have
served bread from out of nowhere, if you were going to give bread via a
miracle? I think it was a possiblilty for Jesus. I believe he could
have. He could have produced something out of nothing. Yet, Jesus did
not do it that way. Jesus accepted the five breads and two fish that a
child had. Then he offered a prayer of thanksgiving, and after tearing
the bread he began to share it. When you think about it, [the whole
thing] is really ridiculous. Though they counted only the men, there are
five thousand persons. He did that before such a huge crowd. He dared
to do something that seemed like "There's no point in doing that at
all!" -- Whereupon, an act of God was revealed by it and the people were
completely satisfied!
The disciples did not forget what happened. Indeed, they could
not possibly forget even if they wanted to; for, the experiences of the
later disciples after them and the experiences of the church later were
truly continuations of this. Hasn't what the church has been doing just
what seems like "There's no point in doing that at all!?" Prime examples
of that are baptism and the Lord's Supper. What is really the point in
submerging once into water or pouring water over one's head? What is
really the point in sharing a little piece of bread and eating it? The
Lord's Supper will be observed today as well. What is really the point
in just eating these little bread looking fragments? When viewed by the
eyes of the world, that's how it just might look. However, while the
church has been continuing to do this for two thousand years, just like
at that time, the work of God has been revealed. Christ the bread of
life has been shared, and the people have been made to live, satisfied
and saved by what God has given.
Furthermore, The Gospel According to John tells us on purpose
that these five breads and two fish was something that the boy had. I
don't think that Jesus had taken up the bread and the fish involuntarily
and then shared them without his consent. The child must have offered
them to Jesus. Even though Andrew said, "It wouldn't be of any use," the
boy presented the bread and the fish. Then the Lord made use of the
bread and the fish that had been presented joyfully. [He had probably
used it] to show [something] to Andrew and the other adults. The adults
had come around before saying, "What will this wind up as? It will
probably do no good." Because of that [they] hesitated to offer it up.
But, the child wasn't that way. If it's somebody he likes, even a half
licked up candy, he would offer it up, "I give it to you, please."
But, soon even the disciples would become like that boy
eventually. After Christ would rise from the dead later, the disciples
would be commanded to "Go into all the world and preach the gospel to
everything that is created." In contrast to the five thousand, they
would now have to come face to face with the entire world. They were no
more than a group of a poor handful of disciples. If you looked at what
they had, it must have seemed like "It would not be of any use." If you
looked at them themselves, it would seem that way. All of them are
disciples who had abandoned and forsaken [Christ] when he was crucified.
They couldn't help but say, "Little me just won't be of any good use."
But still and all, they offered what they had, their abilities, and
themselves as is. They became like the child! Christ accepted every bit
[of them], he used [them] in order to give the world the bread of life.
That's the history of the church.
We should also give offerings [like that boy did] to Christ. Of
what we have. Even ourselves. Christ will use [what we give him]. In
order to share the bread of life with the world. He will surely use
[what we give] to share the bread of life with the people he has caused
us to meet and come face to face with, and to grant them life and to
save them.