日本ピューリタン教会 We Are the Japanese Puritan Church

Saturday, July 19, 2014

イエスは良い羊飼いです

司教ダニエルは説教します。





ヨハネ10:11-18
10:11 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導 かれ、一つの群れになる。10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わた しが父から受けた掟である。」



聖書の中には、羊の使い方が大体3つありました:そのウールの毛、食肉として、又、犠牲の為でした。それで羊は大事なものでした。羊飼いは自分の羊を守ら なければなりませんでした。先ず、狼のような野獣がいます。狼は羊を奪って食べて、羊の群れを追い散らします。その恐ろしい狼と戦ち向かうのは、勇気のあ る羊かいだけです。若い時のダビデ王は、自分のパチンコや鞭と杖を持って自分の羊の群れを守りました。雇い人でしたら、自分自身を守って狼から逃げます。 しかし羊のオーナーである羊飼いは、その羊の為に特別な思いを持ちます。経済的な思いだけではなく、ペットに近い愛情がありました。羊飼いと羊の間には、 信頼関係もありました。イエス様はその事をこのように言われました、「10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」羊に対してもう一つの危険は泥坊でした。又、もう一つの脅(おど) しとは、神殿で犠牲となって、死ぬ可能性です。 

私達の為にこの福音書の意味を見ましょう。私達はその羊であり、イエス様は私達の良い羊飼いです。私達のウールや食肉として、又犠牲の為に、イエス様が私 達を飼いません。それでは、なぜ私達を飼うでしょうか。私達に羊飼いが必要だからです。私達は守りと導きが必要です。そして私達とイエス様の間には信頼関 係があります。イエス様はその事をこのように言われました。「10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」 

今日も狼がやってきます。私達を奪ったり、食べたり、群れを追い散らしたりします。現代的な狼は、羊の毛を身につけてひそかに来ます。インターネットのア イデンテティの泥坊のようです。ある人はこのようにして全を失ないます。だまされます。法律的に大丈夫みたいでしても、第9の戒めを破る事です。人は犠牲 のようになります。例えば、会社がその人の苦労の働きを利用して、その人に生きる為に必要なサラリーなどを十分与えない時です。又、宗教的なカルトもあり ます。神様の羊を奪って、その永遠の救いを奪い取ります。ですから教会の中で、私達はいつも神様の律法と福音を、忠実に説教したり教えたりします。それは 良い羊飼いの群れの中で信者達を守る為です。

しかし先に言ったように、羊の為のもう一つの危険とは、神殿での犠牲です。無罪、シミもない羊は、罪を赦す為に祭壇の上に燃やされました。もしあなたはシ ドニー姉と同じように考えて、それが恐ろしいと思いましたら、あなたはこの聖書の箇所を正しく聞いています。人間の罪の為に無罪の羊を殺す事がひどいこと だと思いましたら、神様に取って罪がどんなにひどいかを、理解することが出来るでしょう。聖なる神様は、私達も聖なる者であるように要求します。聖書の中 では、神様は罪人の為に死ぬ事を命令します。それで、私達の罪の為に、私達も死ぬようにと神様は要求します。それは正義や義や正しい事と呼びます。 

しかし愛と憐れみを持って、神様は罪人が神様の罰から逃れる方法をもうけました。人が死ぬ事の代わりに、羊がその代わりに死ぬ事です。人の罪がその羊にう つされます。このようして、人が聖なる者になりますが、羊は罪深い存在となりましたので、死ななければなりません。聖書の中では、これは犠牲や贖いと呼び ます。しかし、世のすべての罪を赦す為に、世のすべての羊だけではまだ足りません。しかし、愛と憐れみを持って、神様は罪人が神様の罰から逃れる方法をも うけました。人が死ぬ事の代わりに羊が死にます。この羊とは、世の罪を取り除く神様の子羊です。イエス・キリストは御自分の上に私達の罪を取って、私達の 代わりに死んで下さいました。このようにして、私達は聖なる者になりますが、神様の子羊は罪深い存在となって死ななければなりません。この理由でイエス・ キリストは十字架上で殺されました。これは犠牲と赦しと贖いと救いと自由と呼びます。

イエス様は言われました、「10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」イエス様を知る私達は、自分の罪を告白します。イエス様が私達の罪 を取り除く、神様の子羊であるので神様に感謝します。彼が私達の救い主、又良い羊飼いであるので喜びます。イエス様の守りの中で生きるのです。イエス様は 悪より私達を守ります。私達が神殿の祭壇での犠牲にならないように私達を救い出して下さいました。 

イエス様は言われました、「10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導 かれ、一つの群れになる。」  教会の中にまだ入っていない羊がいるので、今日の福音書は伝道の為の呼びかけもなります。イエス様はその人々の羊飼いでもあります。神様はその人 をも愛して守りたいと思います。れで私達の教会の中になくても、私達は私達の良い羊飼いのように私達も羊飼いとなって、その子羊をも守ります。すべての 人々の人権と尊さを守ります。無罪の人が殺されたり、悪に利用されたりする事が恐ろしいと感じます。ひどいと思います。人間が羊よりはるかに尊いもので す。それで必要のある人々の為に祈って、支えます。私達の良い羊飼いであるイエス様へと導かれています。

Monday, July 14, 2014

マタイ 11:28~30





福音書 マタイ 11:28~30 
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。


今日の福音書の日課は、純粋な福音です。喜ばしい良い知らせです。昔から多くのキリスト信者達に、希望と慰めと平和と力と喜びと安心を与えました。「疲れ た者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」すべての人々には重荷があります。皆には荷物があります。仕事や責任があり ます。心配を始め、病気、痛み、悲しみ、後悔、恐れがあります。イエス様の言葉は、やすみと平和を得るためへの招きです。 

しかし、この世のやかましくて空しい約束があるので、イエス様の言葉が聞こえません。永遠の平和の代わりに、一時的な解放や展開しかありません。そのもの が別に罪深い訳ではありません。この世の綺麗なものと良いものは神様からの恵みです。友達や薬によって助けられます。しかし、ある時、心配とか痛みがひど くて、何も役に立たないみたいです。失望は地獄のようです。イエス様を諦めましたら、それは地獄です。 

イエス様の言葉が純粋な福音であるのは、イエス様が私達と共にいるからです。「わたしのもとに来なさい」と言われます。イエス様は私達の問題の責任を感じ るからです。私達の痛みを感じるからです。イエス様は私達の問題が分かります。これが素晴らしい良い知らせであるのは、イエス様は御自分の上にこの世の罪 を取って、世の痛みを取って、世の重荷を取って十字架上で死にました。御自分の上にその重荷がありましたが、イースターの朝に甦った時、その罪を全部後ろ に捨てました。その罪が死にました。イースターに復活した時、癒しと命がありました。 

詩篇23篇は同じ事をいいます:「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ」。 

イエス様は言われました、「わたしは柔和(にゅうわ)で謙遜(けんそん)な者だから、わたしの軛(くびき)を負(お)い、わたしに学びなさい。そうすれ ば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」イエス様のくびきを見つける時、魂の安らぎを見つけます。くびきが分かりますか。首のカラーの一 種です。鋤やワゴンを馬や牛に引っ張る時、その働物をそのワゴンやカートにつながなければなりません。つなぐ為にくびきを使います。牛の首と肩にかけます ので、その牛の力が全部をそのワゴンを引っ張る力になります。くびきのサイズが大切です。大きいと落ちるでしょう。小さいと牛の首を絞めるでしょう。ス ムーズでなければ、牛の皮膚を切るでしょう。丁度良いフィットでしたら、楽になり、簡単に負い易くて、簡単にそのワゴンを引っ張る事が出来ます。イエス様 が「わたしの軛は負いやすく」と言われる時、その意味です。イエス様の助けによって、私達の人生の問題がより易く扱います。そして、イエス様の助けによっ て、私達の重荷がより軽くなります。

本当です。私の経験ですが、祈りますと、私の問題が軽くなります。祈りによって私の問題をイエス様の所に持って行きますと、イエス様は私を助けて下さいま す。又、歌を歌う事も役に立つと私には分かります。歌は祈りですし、神様の愛を思い起こすものです。ですから、私達が好きな賛美歌や聖歌の一節や二節を覚 えて置くべきです。祈りと歌は、私達をイエス様につなぐくびきです。礼拝も素晴らしいです。罪の告白と赦しによって、その古い罪の重荷を下ろして捨てま す。聖餐式によって、信仰の為の力と毎日のイエス様との人生の力をももらいます。 

暗記すれば素晴らしい聖句が沢山あります。今日の福音書の箇所をも覚えましょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて あげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、 わたしの荷は軽いからである。」
アーメン。