日本ピューリタン教会 We Are the Japanese Puritan Church

Sunday, April 6, 2014

聖書 マタイによる福音書 25章31節~46節








地獄の火を免れるための善行?
 「最後の審判において起こること」というのが今日の説教題です。「最後の審判」という言葉を聞いて、喜びが湧き上がってくるという人、ここにおられますか。心躍らせながら、「ああ、最後の審判が待ち遠しい」と言う人はおられますか。恐らくほとんどいないことでしょう。この説教題は、今日の福音書朗読から取ったものです。今日の福音書朗読を聞いて、心が平安に満たされた人はおられますか。決して多くはないことと思います。というのも、イエス様がなさったお話は、かなり恐ろしい話ですから。最後に羊と山羊に分けられるというのでしょう。そして、羊には「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と語られる。山羊には「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」と言われる。そこでどうしても考えざるを得ないではありませんか。わたしは羊になるか、山羊になるか、と。ましてや、「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」という、具体的な愛の行いが裁きの基準であるようだと知りますと、たちまち自信が持てなくなります。となりますと、山羊の側になるかもしれないのですから、これは本当に恐ろしい話であるということになります。
 もちろん、「恐怖」は時として強烈な善行への動機付けとして働きます。地獄絵がただ恐怖を与えることが目的ではなく善行を促す教育的な意味があったのと同じように、今日の箇所も小さき者への愛の行いを動機付ける物語として読むことができるでしょうし、実際にしばしばそのように読まれてきました。最後に至るまでは人は自分のしたいように生きることができる。しかし、最後には王なるキリストの前に立つことになるのだ。人生を判断するのは人間ではなくまことの裁き主であるキリストである。そこで山羊の側になりたくなかったら、生きている間に、自分が為しえる間に、実際に行動をもって「最も小さい者」に愛を表さなくてはならない、というように。そのように、「恐ろしい話」が必ずしも悪いものとは限りません。私たちには時として恐ろしい話も必要です。それは分かります。
 しかし、この「恐ろしい話」を読んで、最後の審判において羊の側にならないために、地獄の火を逃れて神の国に入るために、あたかも保険をかけるかのように、善行や隣人愛の行為を一生懸命に積み立てるとするならば、それはそれで何か変だと思いませんか。確かに、悪いことをするよりは、善いことをする方が好ましいに違いないのですが、それでも動機と目的がただ「自分の救いのため」ということであるならば、何かがおかしい。そう思いませんか。それではまるで自分が救われるために他の人を踏み台にするようなものではありませんか。それはもしかしたら愛の名を借りた究極のエゴイズムとも言えるかもしれません。そのようなことのために、イエス様がこの話をしているのでないことは明らかでしょう。
 そもそも、それではここに出て来る羊たちとは全く違う姿になってしまうのです。考えてみてください。「最も小さい者にしたことはイエス様に対してしたことになるんだ。今、この人にしていることも、イエス様にしていることになるんだ。これまで随分《イエス様に対して》善いことをしてきたはずだ。もう既に相当ポイントが貯まっているはずだ。このままいけば確実に羊の側に違いない」と思いながら、そのように人生を送って、やがて王なるキリストの前に立ったとしたらどうでしょう。ここに出て来る羊たちとはかなり違ったことを言うのではありませんか。
 彼らはこう言っているのです。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」(37‐39節)。いいえ、あなたのためになど、何一つしておりません、と彼らは言っているのです。そう言って驚いているのです。ポイントが貯まっているはずだと思っている人は、そうは言いませんでしょう。「最も小さい者の一人にしたのは、あなたにしてあげたことになるんですよね!わたしはあなたのためにかなり働いたし、あなたに対する愛の業に励んできたと思うのですが」。そう言うのではありませんか。そのように、山羊の側にならずに羊の側になるために愛の行いに励むとしますと、結果的にはここに出てくる羊たちと同じにはならない。似ても似つかぬ者となってしまうのです。やはり何かがおかしい。
最も小さな者の一人であるわたしとして
 そこで改めて私たちの立ち位置を考えてみる必要があろうかと思うのです。聖書というものを教訓や戒めのための書物だと思っていますと、どうしてもこのような例え話を読むにしても、「私たちはどうすべきか」ということにまず考えが行ってしまいます。そして、この場合、「最も小さな者の一人」に対して何を為すべきか、というように、「何かをしてあげる側」に身を置いてこの話を読んでしまいやすいのです。
 しかし、それが唯一の立ち位置なのではありません。私たちは「飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をする」側に立つこともあるでしょうが、もう一方で「お世話をされる」側に立つこともあるのではありませんか。食べさせてもらったり、癒してもらったり、お見舞いしてもらったり、助けてもらったり。自分では何一つ為しえない状況で、苦しんで悩んで、他の人から助けてもらうしかなくて、本当に自分の無力さや小ささを痛感せざるを得ない状況に置かれることだってあるのでしょう。そして、信仰者として、もちろん他の人に対してどうするかということも大きな課題でしょうが、それと同じくらい大きな課題は、まさに「最も小さい者」となった時、あるいはそのようにされた時、いったい何を考えるのか、ということなのではありませんか。そのように「最も小さい者の一人」の場所に立ってこの話を聞くことも必要なことなのです。
 事実、イエス様は別の箇所で弟子たちのことを「小さい者」と呼んでいるのです。同じ福音書の10章において、イエス様はこのように言っておられるのです。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(10:42)。実際、初期の教会の構成していた人たちの多くは奴隷の身分の人たちであったり、この世的には極めて低い立場にあった人たちであり、人々から卑しめられてきた人たちであったのです。また伝道者たちも、まさに物乞いのような有り様で、行くところ行くところで人々のお世話になりながら伝道を続けていたのです。ですから、イエス様の弟子たちにせよ、後のキリスト者にせよ、ここで語られている「最も小さな者の一人」は、決して誰かどこかの他の人ではなかったのです。どうしてもこの「最も小さな者の一人」に身を置いて聞かざるを得なかったのです。
 そのように、私たちもまずはこの「最も小さな者の一人」のところに身を置いて、この福音の言葉を聞いたら良いのです。様々な場面で、飢えたり渇いたり、世話にならなくてはならない私たち。どんなに強がってみても、実際にはしばしば牢に捕らわれて身動きできないような状態の私たち。そのような私たち自身をそのまま持ってきて、イエス様の言葉を聞くのです。するとそこでイエス様がこう言ってくださるのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と。
 どんなに小さな者であろうが、無力な者であろうが、イエス様は「これはわたしの兄弟だ」と言ってくださる。そのようにして私たちの傍らに立たれるのです。そして、私たちが助けを受けるならば、イエス様御自身が受けたかのように感じてくださる。私たちが、誰かの愛情に接して心温まる喜びを感じたならば、イエス様がその愛の行為を受けたかのように共に喜んでくださるのです。またもう一方で、私たちが不当な扱いを受けるなら、私たちが蔑ろにされたり、軽んじられたりするならば、イエス様御自身が蔑ろにされたり軽んじられたりしたかのように怒ってくださるのです。「永遠の火に入れ!」とは実に激しい言葉ではありませんか。しかし、それほどにイエス様は怒ってくださるのです。そのように、私たちはイエス様の兄弟であり、イエス様は私たちと御自分とをいわば同一視してくださるのです。それがここで語られていることなのです。
 そのように、まずは私たち自身の傍らに立って、「これはわたしの兄弟だ。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言ってくださるイエス様を知ることです。私たちをどれほど大切に思っていてくださるかを思うことです。最後の審判においてまで、そう言ってくださるほどに、大切に思われているのです。
 そのように私たちの傍らに立ってくださるイエス様が見えてきますと、もう一つのことが見えてくるはずなのです。他の人の傍らに立っているイエス様です。イエス様が私たちを大切に思ってくださったように、主は他の人たち、私たちの周りの人たち、特に助けを必要としていたり愛されることを必要としている人たちについてもこう言われるのです。「これはわたしの兄弟なのだよ。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだよ」と。
 この例え話をしておられるイエス様が望んでおられることは、そこから始まっていくのです。地獄の火を免れるための保険でもない、神の国に入るために一生懸命に貯えたポイントでもない、いかなる形においても自分自身に栄光を帰さない、もしかしたら自分の記憶にさえも残らない愛の行いが、小さいながらもそこから始まるのです。そして、それはたとえ小さなことであっても、決して主の目に軽んじられることはないのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と主は言われるのですから。そのことを思いながら生きてこそ、はじめて私たちもまた、ここに出て来る羊たちと同じようになれるのでしょう。やがて王の前で、私たちはその時に驚きの声を上げることになるのでしょう。「え?いつわたしたちはそんなことをしましたか?」と。それは何と喜ばしい驚きであることでしょう。