日本ピューリタン教会 We Are the Japanese Puritan Church

Saturday, July 19, 2014

イエスは良い羊飼いです

司教ダニエルは説教します。





ヨハネ10:11-18
10:11 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導 かれ、一つの群れになる。10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わた しが父から受けた掟である。」



聖書の中には、羊の使い方が大体3つありました:そのウールの毛、食肉として、又、犠牲の為でした。それで羊は大事なものでした。羊飼いは自分の羊を守ら なければなりませんでした。先ず、狼のような野獣がいます。狼は羊を奪って食べて、羊の群れを追い散らします。その恐ろしい狼と戦ち向かうのは、勇気のあ る羊かいだけです。若い時のダビデ王は、自分のパチンコや鞭と杖を持って自分の羊の群れを守りました。雇い人でしたら、自分自身を守って狼から逃げます。 しかし羊のオーナーである羊飼いは、その羊の為に特別な思いを持ちます。経済的な思いだけではなく、ペットに近い愛情がありました。羊飼いと羊の間には、 信頼関係もありました。イエス様はその事をこのように言われました、「10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」羊に対してもう一つの危険は泥坊でした。又、もう一つの脅(おど) しとは、神殿で犠牲となって、死ぬ可能性です。 

私達の為にこの福音書の意味を見ましょう。私達はその羊であり、イエス様は私達の良い羊飼いです。私達のウールや食肉として、又犠牲の為に、イエス様が私 達を飼いません。それでは、なぜ私達を飼うでしょうか。私達に羊飼いが必要だからです。私達は守りと導きが必要です。そして私達とイエス様の間には信頼関 係があります。イエス様はその事をこのように言われました。「10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」 

今日も狼がやってきます。私達を奪ったり、食べたり、群れを追い散らしたりします。現代的な狼は、羊の毛を身につけてひそかに来ます。インターネットのア イデンテティの泥坊のようです。ある人はこのようにして全を失ないます。だまされます。法律的に大丈夫みたいでしても、第9の戒めを破る事です。人は犠牲 のようになります。例えば、会社がその人の苦労の働きを利用して、その人に生きる為に必要なサラリーなどを十分与えない時です。又、宗教的なカルトもあり ます。神様の羊を奪って、その永遠の救いを奪い取ります。ですから教会の中で、私達はいつも神様の律法と福音を、忠実に説教したり教えたりします。それは 良い羊飼いの群れの中で信者達を守る為です。

しかし先に言ったように、羊の為のもう一つの危険とは、神殿での犠牲です。無罪、シミもない羊は、罪を赦す為に祭壇の上に燃やされました。もしあなたはシ ドニー姉と同じように考えて、それが恐ろしいと思いましたら、あなたはこの聖書の箇所を正しく聞いています。人間の罪の為に無罪の羊を殺す事がひどいこと だと思いましたら、神様に取って罪がどんなにひどいかを、理解することが出来るでしょう。聖なる神様は、私達も聖なる者であるように要求します。聖書の中 では、神様は罪人の為に死ぬ事を命令します。それで、私達の罪の為に、私達も死ぬようにと神様は要求します。それは正義や義や正しい事と呼びます。 

しかし愛と憐れみを持って、神様は罪人が神様の罰から逃れる方法をもうけました。人が死ぬ事の代わりに、羊がその代わりに死ぬ事です。人の罪がその羊にう つされます。このようして、人が聖なる者になりますが、羊は罪深い存在となりましたので、死ななければなりません。聖書の中では、これは犠牲や贖いと呼び ます。しかし、世のすべての罪を赦す為に、世のすべての羊だけではまだ足りません。しかし、愛と憐れみを持って、神様は罪人が神様の罰から逃れる方法をも うけました。人が死ぬ事の代わりに羊が死にます。この羊とは、世の罪を取り除く神様の子羊です。イエス・キリストは御自分の上に私達の罪を取って、私達の 代わりに死んで下さいました。このようにして、私達は聖なる者になりますが、神様の子羊は罪深い存在となって死ななければなりません。この理由でイエス・ キリストは十字架上で殺されました。これは犠牲と赦しと贖いと救いと自由と呼びます。

イエス様は言われました、「10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」イエス様を知る私達は、自分の罪を告白します。イエス様が私達の罪 を取り除く、神様の子羊であるので神様に感謝します。彼が私達の救い主、又良い羊飼いであるので喜びます。イエス様の守りの中で生きるのです。イエス様は 悪より私達を守ります。私達が神殿の祭壇での犠牲にならないように私達を救い出して下さいました。 

イエス様は言われました、「10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導 かれ、一つの群れになる。」  教会の中にまだ入っていない羊がいるので、今日の福音書は伝道の為の呼びかけもなります。イエス様はその人々の羊飼いでもあります。神様はその人 をも愛して守りたいと思います。れで私達の教会の中になくても、私達は私達の良い羊飼いのように私達も羊飼いとなって、その子羊をも守ります。すべての 人々の人権と尊さを守ります。無罪の人が殺されたり、悪に利用されたりする事が恐ろしいと感じます。ひどいと思います。人間が羊よりはるかに尊いもので す。それで必要のある人々の為に祈って、支えます。私達の良い羊飼いであるイエス様へと導かれています。

Monday, July 14, 2014

マタイ 11:28~30





福音書 マタイ 11:28~30 
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。


今日の福音書の日課は、純粋な福音です。喜ばしい良い知らせです。昔から多くのキリスト信者達に、希望と慰めと平和と力と喜びと安心を与えました。「疲れ た者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」すべての人々には重荷があります。皆には荷物があります。仕事や責任があり ます。心配を始め、病気、痛み、悲しみ、後悔、恐れがあります。イエス様の言葉は、やすみと平和を得るためへの招きです。 

しかし、この世のやかましくて空しい約束があるので、イエス様の言葉が聞こえません。永遠の平和の代わりに、一時的な解放や展開しかありません。そのもの が別に罪深い訳ではありません。この世の綺麗なものと良いものは神様からの恵みです。友達や薬によって助けられます。しかし、ある時、心配とか痛みがひど くて、何も役に立たないみたいです。失望は地獄のようです。イエス様を諦めましたら、それは地獄です。 

イエス様の言葉が純粋な福音であるのは、イエス様が私達と共にいるからです。「わたしのもとに来なさい」と言われます。イエス様は私達の問題の責任を感じ るからです。私達の痛みを感じるからです。イエス様は私達の問題が分かります。これが素晴らしい良い知らせであるのは、イエス様は御自分の上にこの世の罪 を取って、世の痛みを取って、世の重荷を取って十字架上で死にました。御自分の上にその重荷がありましたが、イースターの朝に甦った時、その罪を全部後ろ に捨てました。その罪が死にました。イースターに復活した時、癒しと命がありました。 

詩篇23篇は同じ事をいいます:「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ」。 

イエス様は言われました、「わたしは柔和(にゅうわ)で謙遜(けんそん)な者だから、わたしの軛(くびき)を負(お)い、わたしに学びなさい。そうすれ ば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」イエス様のくびきを見つける時、魂の安らぎを見つけます。くびきが分かりますか。首のカラーの一 種です。鋤やワゴンを馬や牛に引っ張る時、その働物をそのワゴンやカートにつながなければなりません。つなぐ為にくびきを使います。牛の首と肩にかけます ので、その牛の力が全部をそのワゴンを引っ張る力になります。くびきのサイズが大切です。大きいと落ちるでしょう。小さいと牛の首を絞めるでしょう。ス ムーズでなければ、牛の皮膚を切るでしょう。丁度良いフィットでしたら、楽になり、簡単に負い易くて、簡単にそのワゴンを引っ張る事が出来ます。イエス様 が「わたしの軛は負いやすく」と言われる時、その意味です。イエス様の助けによって、私達の人生の問題がより易く扱います。そして、イエス様の助けによっ て、私達の重荷がより軽くなります。

本当です。私の経験ですが、祈りますと、私の問題が軽くなります。祈りによって私の問題をイエス様の所に持って行きますと、イエス様は私を助けて下さいま す。又、歌を歌う事も役に立つと私には分かります。歌は祈りですし、神様の愛を思い起こすものです。ですから、私達が好きな賛美歌や聖歌の一節や二節を覚 えて置くべきです。祈りと歌は、私達をイエス様につなぐくびきです。礼拝も素晴らしいです。罪の告白と赦しによって、その古い罪の重荷を下ろして捨てま す。聖餐式によって、信仰の為の力と毎日のイエス様との人生の力をももらいます。 

暗記すれば素晴らしい聖句が沢山あります。今日の福音書の箇所をも覚えましょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて あげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、 わたしの荷は軽いからである。」
アーメン。

Sunday, June 29, 2014

キリスチャンの愛

わたしは、しいいましめをあなたがたにえる、いなさい。わたしがあなたがたをしたように、あなたがたもいなさい。 うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべてのめるであろう。 ヨハネ 13:34-35

Sunday, April 6, 2014

聖書 マタイによる福音書 25章31節~46節








地獄の火を免れるための善行?
 「最後の審判において起こること」というのが今日の説教題です。「最後の審判」という言葉を聞いて、喜びが湧き上がってくるという人、ここにおられますか。心躍らせながら、「ああ、最後の審判が待ち遠しい」と言う人はおられますか。恐らくほとんどいないことでしょう。この説教題は、今日の福音書朗読から取ったものです。今日の福音書朗読を聞いて、心が平安に満たされた人はおられますか。決して多くはないことと思います。というのも、イエス様がなさったお話は、かなり恐ろしい話ですから。最後に羊と山羊に分けられるというのでしょう。そして、羊には「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と語られる。山羊には「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」と言われる。そこでどうしても考えざるを得ないではありませんか。わたしは羊になるか、山羊になるか、と。ましてや、「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」という、具体的な愛の行いが裁きの基準であるようだと知りますと、たちまち自信が持てなくなります。となりますと、山羊の側になるかもしれないのですから、これは本当に恐ろしい話であるということになります。
 もちろん、「恐怖」は時として強烈な善行への動機付けとして働きます。地獄絵がただ恐怖を与えることが目的ではなく善行を促す教育的な意味があったのと同じように、今日の箇所も小さき者への愛の行いを動機付ける物語として読むことができるでしょうし、実際にしばしばそのように読まれてきました。最後に至るまでは人は自分のしたいように生きることができる。しかし、最後には王なるキリストの前に立つことになるのだ。人生を判断するのは人間ではなくまことの裁き主であるキリストである。そこで山羊の側になりたくなかったら、生きている間に、自分が為しえる間に、実際に行動をもって「最も小さい者」に愛を表さなくてはならない、というように。そのように、「恐ろしい話」が必ずしも悪いものとは限りません。私たちには時として恐ろしい話も必要です。それは分かります。
 しかし、この「恐ろしい話」を読んで、最後の審判において羊の側にならないために、地獄の火を逃れて神の国に入るために、あたかも保険をかけるかのように、善行や隣人愛の行為を一生懸命に積み立てるとするならば、それはそれで何か変だと思いませんか。確かに、悪いことをするよりは、善いことをする方が好ましいに違いないのですが、それでも動機と目的がただ「自分の救いのため」ということであるならば、何かがおかしい。そう思いませんか。それではまるで自分が救われるために他の人を踏み台にするようなものではありませんか。それはもしかしたら愛の名を借りた究極のエゴイズムとも言えるかもしれません。そのようなことのために、イエス様がこの話をしているのでないことは明らかでしょう。
 そもそも、それではここに出て来る羊たちとは全く違う姿になってしまうのです。考えてみてください。「最も小さい者にしたことはイエス様に対してしたことになるんだ。今、この人にしていることも、イエス様にしていることになるんだ。これまで随分《イエス様に対して》善いことをしてきたはずだ。もう既に相当ポイントが貯まっているはずだ。このままいけば確実に羊の側に違いない」と思いながら、そのように人生を送って、やがて王なるキリストの前に立ったとしたらどうでしょう。ここに出て来る羊たちとはかなり違ったことを言うのではありませんか。
 彼らはこう言っているのです。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」(37‐39節)。いいえ、あなたのためになど、何一つしておりません、と彼らは言っているのです。そう言って驚いているのです。ポイントが貯まっているはずだと思っている人は、そうは言いませんでしょう。「最も小さい者の一人にしたのは、あなたにしてあげたことになるんですよね!わたしはあなたのためにかなり働いたし、あなたに対する愛の業に励んできたと思うのですが」。そう言うのではありませんか。そのように、山羊の側にならずに羊の側になるために愛の行いに励むとしますと、結果的にはここに出てくる羊たちと同じにはならない。似ても似つかぬ者となってしまうのです。やはり何かがおかしい。
最も小さな者の一人であるわたしとして
 そこで改めて私たちの立ち位置を考えてみる必要があろうかと思うのです。聖書というものを教訓や戒めのための書物だと思っていますと、どうしてもこのような例え話を読むにしても、「私たちはどうすべきか」ということにまず考えが行ってしまいます。そして、この場合、「最も小さな者の一人」に対して何を為すべきか、というように、「何かをしてあげる側」に身を置いてこの話を読んでしまいやすいのです。
 しかし、それが唯一の立ち位置なのではありません。私たちは「飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をする」側に立つこともあるでしょうが、もう一方で「お世話をされる」側に立つこともあるのではありませんか。食べさせてもらったり、癒してもらったり、お見舞いしてもらったり、助けてもらったり。自分では何一つ為しえない状況で、苦しんで悩んで、他の人から助けてもらうしかなくて、本当に自分の無力さや小ささを痛感せざるを得ない状況に置かれることだってあるのでしょう。そして、信仰者として、もちろん他の人に対してどうするかということも大きな課題でしょうが、それと同じくらい大きな課題は、まさに「最も小さい者」となった時、あるいはそのようにされた時、いったい何を考えるのか、ということなのではありませんか。そのように「最も小さい者の一人」の場所に立ってこの話を聞くことも必要なことなのです。
 事実、イエス様は別の箇所で弟子たちのことを「小さい者」と呼んでいるのです。同じ福音書の10章において、イエス様はこのように言っておられるのです。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(10:42)。実際、初期の教会の構成していた人たちの多くは奴隷の身分の人たちであったり、この世的には極めて低い立場にあった人たちであり、人々から卑しめられてきた人たちであったのです。また伝道者たちも、まさに物乞いのような有り様で、行くところ行くところで人々のお世話になりながら伝道を続けていたのです。ですから、イエス様の弟子たちにせよ、後のキリスト者にせよ、ここで語られている「最も小さな者の一人」は、決して誰かどこかの他の人ではなかったのです。どうしてもこの「最も小さな者の一人」に身を置いて聞かざるを得なかったのです。
 そのように、私たちもまずはこの「最も小さな者の一人」のところに身を置いて、この福音の言葉を聞いたら良いのです。様々な場面で、飢えたり渇いたり、世話にならなくてはならない私たち。どんなに強がってみても、実際にはしばしば牢に捕らわれて身動きできないような状態の私たち。そのような私たち自身をそのまま持ってきて、イエス様の言葉を聞くのです。するとそこでイエス様がこう言ってくださるのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と。
 どんなに小さな者であろうが、無力な者であろうが、イエス様は「これはわたしの兄弟だ」と言ってくださる。そのようにして私たちの傍らに立たれるのです。そして、私たちが助けを受けるならば、イエス様御自身が受けたかのように感じてくださる。私たちが、誰かの愛情に接して心温まる喜びを感じたならば、イエス様がその愛の行為を受けたかのように共に喜んでくださるのです。またもう一方で、私たちが不当な扱いを受けるなら、私たちが蔑ろにされたり、軽んじられたりするならば、イエス様御自身が蔑ろにされたり軽んじられたりしたかのように怒ってくださるのです。「永遠の火に入れ!」とは実に激しい言葉ではありませんか。しかし、それほどにイエス様は怒ってくださるのです。そのように、私たちはイエス様の兄弟であり、イエス様は私たちと御自分とをいわば同一視してくださるのです。それがここで語られていることなのです。
 そのように、まずは私たち自身の傍らに立って、「これはわたしの兄弟だ。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言ってくださるイエス様を知ることです。私たちをどれほど大切に思っていてくださるかを思うことです。最後の審判においてまで、そう言ってくださるほどに、大切に思われているのです。
 そのように私たちの傍らに立ってくださるイエス様が見えてきますと、もう一つのことが見えてくるはずなのです。他の人の傍らに立っているイエス様です。イエス様が私たちを大切に思ってくださったように、主は他の人たち、私たちの周りの人たち、特に助けを必要としていたり愛されることを必要としている人たちについてもこう言われるのです。「これはわたしの兄弟なのだよ。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだよ」と。
 この例え話をしておられるイエス様が望んでおられることは、そこから始まっていくのです。地獄の火を免れるための保険でもない、神の国に入るために一生懸命に貯えたポイントでもない、いかなる形においても自分自身に栄光を帰さない、もしかしたら自分の記憶にさえも残らない愛の行いが、小さいながらもそこから始まるのです。そして、それはたとえ小さなことであっても、決して主の目に軽んじられることはないのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と主は言われるのですから。そのことを思いながら生きてこそ、はじめて私たちもまた、ここに出て来る羊たちと同じようになれるのでしょう。やがて王の前で、私たちはその時に驚きの声を上げることになるのでしょう。「え?いつわたしたちはそんなことをしましたか?」と。それは何と喜ばしい驚きであることでしょう。

Sunday, March 16, 2014

名古屋のホームレス Nagoya Homeless


名古屋 名城公園


栄地下鉄駅



愛知県と名古屋市にはホームレスのデイセンターやシェルターを持っていません。デイセンターや避難所、食事、安全、シャワー、洗濯のためにホームレスの場所を提供します。デイセンターはホームレス生活技能を教える。ホームレスが自立するために、これらのライフスキルを指導します。ホームレスは彼らが困難な状況にあり怠け者ではありません。手助けは解決ではありません。解決はホームレスが独立していくように教えるのがデイセンターです。
ホームレスに安全なサービスを提供します。また、ホームレスがもとの生活を取り戻すためにチャンスを得ます。私たちは、避難所、食糧、衣類、とシャワーを提供します。さらに重要なことはホームレスから自立するために、ホームレスの依存関係から脱却することでもとの生活を取り戻すことになります。
あなたの寄付は、フルサービスのデイセンター、食品、その他の必需品を提供するのに役立ちます。

The Homeless in Nagoya have no shelter or day center.  They must sleep where they can find space.  Under highway overpasses, parks, train stations, and even on the sidewalk.  Something must be done about this.  Our solution is to work with Nagoya area churches to create a day center.  Here they could eat meals, shower, wash clothes, and seek rest from the weather.  
Our goal is not to "help" the homeless, this only perpetuates the problem.  Our mission is to end homelessness in Nagoya by assisting the homeless to regain their independence.

Wednesday, January 1, 2014

明けましておめでとう




明けましておめでとうございます。神の祝福がありますよう。

Tuesday, December 31, 2013

コミュニオン儀式

コミュニオン儀式

執事:
使徒パウロは教えて:
だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。 だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。 (1Cor.11:27-28)
私たちの良心を調べてみましょう。

十戒
牧師と会衆:

主が唯一の神であること 。
偶像を作ってはならないこと。
神の名前をみだりに唱えてはならないこと 。
安息日を守ること。
父母を敬うこと 。
汝、殺すなかれ。
汝、姦淫なかれ。
汝、盗むなかれ。
汝、偽誓なかれ。
汝が切望なかれ。

(時間は良心を調べました。)
赦しの祈り (牧師と会衆):
主イエス、
私たちは罪を犯しました。私たちはあなたの許しをお願いします。
私たちは、善を行うことを約束します。主の聖なる名前で、アーメン。

牧師:
イエスは言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。(John 6:35, 39-40)

会衆は言います:
神にかんしゃ。

執事:
わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。
パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。(1Cor. 10:16-17)

会衆は言います:
キリストに賛美

牧師:
主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、
「これはあなたがたのための、わたしのからだである。
わたしを記念するため、このように行いなさい」。
食事ののち、杯をも同じようにして言われた、
「この杯は、わたしの血による新しい契約である。
飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。
だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、
主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。(1Cor. 11:23-26)

会衆は言います:
主の平和

牧師:
栄光は父と子と聖霊に

会衆は言います:
初めのように今も何時も世々に

主の祈り
(牧師と会衆は言います)
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです アーメン .

牧師:シンボルのキリストの体と血
牧師と会衆はコミュニオンを食べます。