日本ピューリタン教会 We Are the Japanese Puritan Church

Sunday, September 14, 2014

ホームレス Homeless

ホームレスで名古屋駅 Homeless at Nagoya Station

理由の人がホームレスである      The Reason People Are Homeless


ホームレス人怠惰なではない.    Homeless are not lazy

ホームレスは犠牲者:     Homeless are victims of:

壊れた家族関係     Broken family relationships

経済不況     Economic recession

雇用一時解雇     Employment layoff

精神的な病気     Mental illness


どこホームレスに住んで           Where The Homeless Live

ホームレス住んで The homeless live:


テントで                                   In tents


公園で                                     In parks

バスシェルターで                    In bus shelters

橋の下                                    Under bridges

駅で In Stations


名古屋市                                           Nagoya

ホームレスデイセンターない No homeless day center

ホームレスシェルターない No homeless shelter

解答  Solution

私たちはホームレスデイセンターの形成を助ける

Help us in the formation of a homeless day center

詳細については、
のお問い合わせフォームをご利用ください

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Friday, September 5, 2014

イエスは貧しい人々を愛している. Jesus Loves The Poor


お金が沢山突然あなたの手に入りましたらどうしますか。遺産やジャンボ宝くじに当たったでしょうか。その場合、すぐ全部を使いはたしますか。それとも、将 来の為に蓄(たくわ)えるでしょうか。遊びか将来のための安心でしょうか。イエス様はたとえ話を話しました。ある金持ちに豊作(ほうさく)がありました。 自分が死ぬまで沢山ありました。安心でした。彼が言いました、「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」それは伝道の書のコヘレトと同じ忠告です。

保障は万全(ばんぜん)ですが、その金持ちの保障はこの地上の物に頼っています。自分の成功によって将来への安心がありました。しかし未来を知る人がいま せん。彼は神様の声を聞きました。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と。私達も将来の 為に計画します。年金(ねんきん)と貯金(ちょきん)があります。しかし株の値段が下がります。日本では年金を払う若い人が少なくなります。又、火事や突 然の病気が起こりますと、貯金全部を使ってしまいます。

自分一人で、永遠への保障を作る事が出来ません。神様以外には永遠の保障がありません。詩篇53篇が言います、「愚かな者は心のうちに「神はない」と言 う」(口語訳)。その金持ちは、すべての信頼を神様によりも、自分の働きの成功に置きました。そして神様は言われました。「愚かな者よ、今夜、お前の命は 取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と。

悪魔はイエス様を「愚かな者」と呼びました。十字架上には安全がありません。着物がはぎ取られ、お金も無く、友達は彼を捨てて逃げ、父なる神様でさえも彼 を捨てたように見えます。「「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であ る。」その日に確かになったこととは、イエス様を十字架にしっかりと付けた釘です。又彼を死刑にした世の罪です。それ以上に、私達の為に喜んで死んで下さ るイエス様の愛です。確かな保障とは神様の約束です。その約束を隣の十字架上にいる強盗に話しました。「今日、あなたは私と共にパラダイスにいる」と。

イイスターは地獄には安全な所は一つもないと証明します。悪魔が私達を永遠に捕らえておく事が出来ないこと、これがイースターの証拠(しょうこ)になりま す。本当の保障はイエス様の中にある事です。これが永遠の命です。これこそが食べたり飲んだりして楽しめる事の出来る理由です。詩篇23篇は言います、 「23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」

聖餐式に、イエス様は私達が彼の体を食べて、彼の血を飲んで、信仰の契約を結ぶように言われます。食べたり飲んだり永遠の命の安心を喜びなさいと。富を天 に積(つ)みます(ルカ12:33)。それで、私達は伝道の書のコヘレトの言葉、その忠告を理解して従います、「2:24 人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。2:25 だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。」
アーメン。

Saturday, August 2, 2014

高蔵寺平和公園 Kozoji Peace Park

メッセージ: 希望

ヨブ記1:20-22, ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。

2:7-10, サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせ た。8ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。 彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と 言ったが、 ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このよう になっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。


ヨブ記42:1-6, ヨブは主に答えて言った。2あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。 「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そう とするとは。」そのとおりです。私には理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。 「聞け、わたしが話す。お前に尋ね る、わたしに答えてみよ。」 あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自 分を退け、悔い改めます。

旧約聖書のヨブ記は、一つの劇のように読む事が出来ます。そこには対話とナレーションがあります。ヨブと名付けられた実際の人がアブラハムとヤコブの時代 に生きたかも知れません。その場合、ヨブ記は彼の人生に基づいている書物で、彼の人生の苦しみと格闘について語った物です。確かにこの本は聖霊によって書 かれた本です。人間の愚かさと神様の知恵が書かれています。人間の冷たさと神様の愛があります。又、サタンの悪と主なる神様の憐れみがあります。 

ヨブ記の最初はヨブを紹介します。とってもけいけんで神様を信じる人です。又、とっても金持ちで成功した人です。主なる神様とサタンとの対話があります。 神様はヨブの事を誇りに思っています。しかし、サタンはヨブをテストしたいと思います。「サタン」と言う名前は、「告発者(こくはつしゃ)」と言う意味で す。もしヨブが苦しめられましたら、ヨブは神様を呪いますか。神様を冒涜するでしょうか。ヨブはとっても金持ちです。そのすべての財産が彼から奪い去られ ましたら、ヨブの幸せがその富にあるのか、それとも神様にあるかをためす事が出来ます。神様からの許しを得て、サタンはその働きを始めます。まず、ヨブの 家畜が全部泥棒に奪われて、十人の子供全部が集まった家が嵐によって破壊されて殺されました。ヨブは大変悲しみましたが、このように言いました。

 ヨブはそのテストに負けませんでした。それでサタンは更にヨブをテストする為に、体に大変な痛みを送りたいと思いました。神様はそれを許しましたが、サタンはヨブを殺してはいけませんでした。ヨブはこのように反応しました

  ヨブの3人の友達が訪ねます。一人ずつ長いスピーチをして、ヨブは各スピーチに答えます。それは裁判のようです。3人はヨブを罪人として告発して、ヨブが 罪人であるので神様は彼を罰すると言います。しかしヨブは自分の無罪を強調して、神様が自分を罰する事が正しくないと言います。それでヨブはその三人のサ タンのような告発者 に対して腹を立て、神様のやり方を理解する事が出来ません。これがヨブ記の中心です。その質問とは、どうして良い人が苦しむかと言う問題です。3人の友達 が言うのは、ヨブは確かに悪い人か罪人であるので、神様の罰を受けます。しかしヨブは自分が無罪であると言います。なぜヨブが苦しむのか誰にも分かりませ ん。最後に神様は語ります。38章から41章までを読めば、とっても奇麗です。神様は全世界の全能の造り主です。神様はすべてを知ります。人間は神様の働 きを理解するのは不可能です。サタンがヨブをためしている事をヨブに教えません。それは必要ではありません。ヨブは神様と神様の知恵を完全に信頼しなけれ ばならないからです。

最後にヨブは自分の苦しみの理由を探すのをやめます。そしてけんそんに神様の知恵を受けいれます。

最後に神様はヨブの財産を2倍にして返しました。新しい10人の子供を与えました。そしてヨブは140歳まで生きました。 

ヨブ記のメッセージとは、「自分がどうして苦しんでいるか分からなくても、神様を信頼しなさい」という事です。神様を信頼しなさい。神様はその理由が分かります。御自分の知恵によって神様は私達を愛します。ですから私達には希望があります。 

私自身にはヨブと同じ経験がありません。彼の痛みと悲しみと怒りを想像する事しか出来ません。彼は正義が欲しいと思いました。その意味が分かりたいと思いました。自分の苦しみの理由が分かれば、それを受け入れます。それで希望を持つ事が出来ます。 

例えば私の背中が痛いです。どうしてでしょうか。昨日、重い家具を動かしたからです。では痛み止めの薬を飲みますと、明日になりますと楽になる希望があります。 

先週の説教のテーマは希望でした。病気で死にそう12歳の娘のお父さんの希望と12年間病気で患った女の人の希望です。イエス様に希望がありました。イエス様の愛と憐れみを望みました。 

聖パウロには多くの問題がありました。伝道活動の為に問題がりました。又、言われる「身に一つのとげ」(2コリント12:7)の問題もありました。私達は その問題が何であったか分かりませんが、確かに痛い体の病気か怪我でしょう。癒してもらうように祈りましたが、最後に神様からの事として受け入れました。 その時神様の憐れみと愛を信頼しました。自分の心に平安がありました。希望を見つけました。 

この点では聖パウロとヨブは同じです。神様の知恵を信頼した時に希望を見つけました。ヨブは造り主なる神様を見つけました。聖パウロは救い主なる神様を見 つけました。私達はこの同じ神様を見つけます:造り主であり、救い主であり、助け主であります。私達はイエス様を見つけました。イエス様はヨブのように苦 しみました。イエス様もサタンに試されました。しかし、ヨブと違って、イエス様は神様の御計画を知りました。サタンが何をしているか分かりました。ですか らイエス様には希望がありました。荒れ野で誘惑された時も望があり、逮捕され裁かれた時にも希望があり、十字架に釘でつけられた時にも希望がありました。 この希望が試されましたが、確かなものでした。3日目に復活しました。 

私達にも同じ希望があります。人生にはどんな事があっても希望があります。即ち、神様が私達を愛して私達を大事にする希望です。神様の知恵とは、宇宙を創 造された知恵です。その全能の知恵は私達を守って私達を支えます。この希望はイエス様の十字架に基づいています。私達が洗礼を受ける時のイエス様の約束に 基づいています。聖パウロが言う通りです。「神様の恵みは自分に十分である」(2コリント12:9)。

Saturday, July 19, 2014

イエスは良い羊飼いです

司教ダニエルは説教します。





ヨハネ10:11-18
10:11 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導 かれ、一つの群れになる。10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わた しが父から受けた掟である。」



聖書の中には、羊の使い方が大体3つありました:そのウールの毛、食肉として、又、犠牲の為でした。それで羊は大事なものでした。羊飼いは自分の羊を守ら なければなりませんでした。先ず、狼のような野獣がいます。狼は羊を奪って食べて、羊の群れを追い散らします。その恐ろしい狼と戦ち向かうのは、勇気のあ る羊かいだけです。若い時のダビデ王は、自分のパチンコや鞭と杖を持って自分の羊の群れを守りました。雇い人でしたら、自分自身を守って狼から逃げます。 しかし羊のオーナーである羊飼いは、その羊の為に特別な思いを持ちます。経済的な思いだけではなく、ペットに近い愛情がありました。羊飼いと羊の間には、 信頼関係もありました。イエス様はその事をこのように言われました、「10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」羊に対してもう一つの危険は泥坊でした。又、もう一つの脅(おど) しとは、神殿で犠牲となって、死ぬ可能性です。 

私達の為にこの福音書の意味を見ましょう。私達はその羊であり、イエス様は私達の良い羊飼いです。私達のウールや食肉として、又犠牲の為に、イエス様が私 達を飼いません。それでは、なぜ私達を飼うでしょうか。私達に羊飼いが必要だからです。私達は守りと導きが必要です。そして私達とイエス様の間には信頼関 係があります。イエス様はその事をこのように言われました。「10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」 

今日も狼がやってきます。私達を奪ったり、食べたり、群れを追い散らしたりします。現代的な狼は、羊の毛を身につけてひそかに来ます。インターネットのア イデンテティの泥坊のようです。ある人はこのようにして全を失ないます。だまされます。法律的に大丈夫みたいでしても、第9の戒めを破る事です。人は犠牲 のようになります。例えば、会社がその人の苦労の働きを利用して、その人に生きる為に必要なサラリーなどを十分与えない時です。又、宗教的なカルトもあり ます。神様の羊を奪って、その永遠の救いを奪い取ります。ですから教会の中で、私達はいつも神様の律法と福音を、忠実に説教したり教えたりします。それは 良い羊飼いの群れの中で信者達を守る為です。

しかし先に言ったように、羊の為のもう一つの危険とは、神殿での犠牲です。無罪、シミもない羊は、罪を赦す為に祭壇の上に燃やされました。もしあなたはシ ドニー姉と同じように考えて、それが恐ろしいと思いましたら、あなたはこの聖書の箇所を正しく聞いています。人間の罪の為に無罪の羊を殺す事がひどいこと だと思いましたら、神様に取って罪がどんなにひどいかを、理解することが出来るでしょう。聖なる神様は、私達も聖なる者であるように要求します。聖書の中 では、神様は罪人の為に死ぬ事を命令します。それで、私達の罪の為に、私達も死ぬようにと神様は要求します。それは正義や義や正しい事と呼びます。 

しかし愛と憐れみを持って、神様は罪人が神様の罰から逃れる方法をもうけました。人が死ぬ事の代わりに、羊がその代わりに死ぬ事です。人の罪がその羊にう つされます。このようして、人が聖なる者になりますが、羊は罪深い存在となりましたので、死ななければなりません。聖書の中では、これは犠牲や贖いと呼び ます。しかし、世のすべての罪を赦す為に、世のすべての羊だけではまだ足りません。しかし、愛と憐れみを持って、神様は罪人が神様の罰から逃れる方法をも うけました。人が死ぬ事の代わりに羊が死にます。この羊とは、世の罪を取り除く神様の子羊です。イエス・キリストは御自分の上に私達の罪を取って、私達の 代わりに死んで下さいました。このようにして、私達は聖なる者になりますが、神様の子羊は罪深い存在となって死ななければなりません。この理由でイエス・ キリストは十字架上で殺されました。これは犠牲と赦しと贖いと救いと自由と呼びます。

イエス様は言われました、「10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」イエス様を知る私達は、自分の罪を告白します。イエス様が私達の罪 を取り除く、神様の子羊であるので神様に感謝します。彼が私達の救い主、又良い羊飼いであるので喜びます。イエス様の守りの中で生きるのです。イエス様は 悪より私達を守ります。私達が神殿の祭壇での犠牲にならないように私達を救い出して下さいました。 

イエス様は言われました、「10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導 かれ、一つの群れになる。」  教会の中にまだ入っていない羊がいるので、今日の福音書は伝道の為の呼びかけもなります。イエス様はその人々の羊飼いでもあります。神様はその人 をも愛して守りたいと思います。れで私達の教会の中になくても、私達は私達の良い羊飼いのように私達も羊飼いとなって、その子羊をも守ります。すべての 人々の人権と尊さを守ります。無罪の人が殺されたり、悪に利用されたりする事が恐ろしいと感じます。ひどいと思います。人間が羊よりはるかに尊いもので す。それで必要のある人々の為に祈って、支えます。私達の良い羊飼いであるイエス様へと導かれています。

Monday, July 14, 2014

マタイ 11:28~30





福音書 マタイ 11:28~30 
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。


今日の福音書の日課は、純粋な福音です。喜ばしい良い知らせです。昔から多くのキリスト信者達に、希望と慰めと平和と力と喜びと安心を与えました。「疲れ た者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」すべての人々には重荷があります。皆には荷物があります。仕事や責任があり ます。心配を始め、病気、痛み、悲しみ、後悔、恐れがあります。イエス様の言葉は、やすみと平和を得るためへの招きです。 

しかし、この世のやかましくて空しい約束があるので、イエス様の言葉が聞こえません。永遠の平和の代わりに、一時的な解放や展開しかありません。そのもの が別に罪深い訳ではありません。この世の綺麗なものと良いものは神様からの恵みです。友達や薬によって助けられます。しかし、ある時、心配とか痛みがひど くて、何も役に立たないみたいです。失望は地獄のようです。イエス様を諦めましたら、それは地獄です。 

イエス様の言葉が純粋な福音であるのは、イエス様が私達と共にいるからです。「わたしのもとに来なさい」と言われます。イエス様は私達の問題の責任を感じ るからです。私達の痛みを感じるからです。イエス様は私達の問題が分かります。これが素晴らしい良い知らせであるのは、イエス様は御自分の上にこの世の罪 を取って、世の痛みを取って、世の重荷を取って十字架上で死にました。御自分の上にその重荷がありましたが、イースターの朝に甦った時、その罪を全部後ろ に捨てました。その罪が死にました。イースターに復活した時、癒しと命がありました。 

詩篇23篇は同じ事をいいます:「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ」。 

イエス様は言われました、「わたしは柔和(にゅうわ)で謙遜(けんそん)な者だから、わたしの軛(くびき)を負(お)い、わたしに学びなさい。そうすれ ば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」イエス様のくびきを見つける時、魂の安らぎを見つけます。くびきが分かりますか。首のカラーの一 種です。鋤やワゴンを馬や牛に引っ張る時、その働物をそのワゴンやカートにつながなければなりません。つなぐ為にくびきを使います。牛の首と肩にかけます ので、その牛の力が全部をそのワゴンを引っ張る力になります。くびきのサイズが大切です。大きいと落ちるでしょう。小さいと牛の首を絞めるでしょう。ス ムーズでなければ、牛の皮膚を切るでしょう。丁度良いフィットでしたら、楽になり、簡単に負い易くて、簡単にそのワゴンを引っ張る事が出来ます。イエス様 が「わたしの軛は負いやすく」と言われる時、その意味です。イエス様の助けによって、私達の人生の問題がより易く扱います。そして、イエス様の助けによっ て、私達の重荷がより軽くなります。

本当です。私の経験ですが、祈りますと、私の問題が軽くなります。祈りによって私の問題をイエス様の所に持って行きますと、イエス様は私を助けて下さいま す。又、歌を歌う事も役に立つと私には分かります。歌は祈りですし、神様の愛を思い起こすものです。ですから、私達が好きな賛美歌や聖歌の一節や二節を覚 えて置くべきです。祈りと歌は、私達をイエス様につなぐくびきです。礼拝も素晴らしいです。罪の告白と赦しによって、その古い罪の重荷を下ろして捨てま す。聖餐式によって、信仰の為の力と毎日のイエス様との人生の力をももらいます。 

暗記すれば素晴らしい聖句が沢山あります。今日の福音書の箇所をも覚えましょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて あげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、 わたしの荷は軽いからである。」
アーメン。

Sunday, June 29, 2014

キリスチャンの愛

わたしは、しいいましめをあなたがたにえる、いなさい。わたしがあなたがたをしたように、あなたがたもいなさい。 うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべてのめるであろう。 ヨハネ 13:34-35

Sunday, April 6, 2014

聖書 マタイによる福音書 25章31節~46節








地獄の火を免れるための善行?
 「最後の審判において起こること」というのが今日の説教題です。「最後の審判」という言葉を聞いて、喜びが湧き上がってくるという人、ここにおられますか。心躍らせながら、「ああ、最後の審判が待ち遠しい」と言う人はおられますか。恐らくほとんどいないことでしょう。この説教題は、今日の福音書朗読から取ったものです。今日の福音書朗読を聞いて、心が平安に満たされた人はおられますか。決して多くはないことと思います。というのも、イエス様がなさったお話は、かなり恐ろしい話ですから。最後に羊と山羊に分けられるというのでしょう。そして、羊には「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と語られる。山羊には「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」と言われる。そこでどうしても考えざるを得ないではありませんか。わたしは羊になるか、山羊になるか、と。ましてや、「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」という、具体的な愛の行いが裁きの基準であるようだと知りますと、たちまち自信が持てなくなります。となりますと、山羊の側になるかもしれないのですから、これは本当に恐ろしい話であるということになります。
 もちろん、「恐怖」は時として強烈な善行への動機付けとして働きます。地獄絵がただ恐怖を与えることが目的ではなく善行を促す教育的な意味があったのと同じように、今日の箇所も小さき者への愛の行いを動機付ける物語として読むことができるでしょうし、実際にしばしばそのように読まれてきました。最後に至るまでは人は自分のしたいように生きることができる。しかし、最後には王なるキリストの前に立つことになるのだ。人生を判断するのは人間ではなくまことの裁き主であるキリストである。そこで山羊の側になりたくなかったら、生きている間に、自分が為しえる間に、実際に行動をもって「最も小さい者」に愛を表さなくてはならない、というように。そのように、「恐ろしい話」が必ずしも悪いものとは限りません。私たちには時として恐ろしい話も必要です。それは分かります。
 しかし、この「恐ろしい話」を読んで、最後の審判において羊の側にならないために、地獄の火を逃れて神の国に入るために、あたかも保険をかけるかのように、善行や隣人愛の行為を一生懸命に積み立てるとするならば、それはそれで何か変だと思いませんか。確かに、悪いことをするよりは、善いことをする方が好ましいに違いないのですが、それでも動機と目的がただ「自分の救いのため」ということであるならば、何かがおかしい。そう思いませんか。それではまるで自分が救われるために他の人を踏み台にするようなものではありませんか。それはもしかしたら愛の名を借りた究極のエゴイズムとも言えるかもしれません。そのようなことのために、イエス様がこの話をしているのでないことは明らかでしょう。
 そもそも、それではここに出て来る羊たちとは全く違う姿になってしまうのです。考えてみてください。「最も小さい者にしたことはイエス様に対してしたことになるんだ。今、この人にしていることも、イエス様にしていることになるんだ。これまで随分《イエス様に対して》善いことをしてきたはずだ。もう既に相当ポイントが貯まっているはずだ。このままいけば確実に羊の側に違いない」と思いながら、そのように人生を送って、やがて王なるキリストの前に立ったとしたらどうでしょう。ここに出て来る羊たちとはかなり違ったことを言うのではありませんか。
 彼らはこう言っているのです。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」(37‐39節)。いいえ、あなたのためになど、何一つしておりません、と彼らは言っているのです。そう言って驚いているのです。ポイントが貯まっているはずだと思っている人は、そうは言いませんでしょう。「最も小さい者の一人にしたのは、あなたにしてあげたことになるんですよね!わたしはあなたのためにかなり働いたし、あなたに対する愛の業に励んできたと思うのですが」。そう言うのではありませんか。そのように、山羊の側にならずに羊の側になるために愛の行いに励むとしますと、結果的にはここに出てくる羊たちと同じにはならない。似ても似つかぬ者となってしまうのです。やはり何かがおかしい。
最も小さな者の一人であるわたしとして
 そこで改めて私たちの立ち位置を考えてみる必要があろうかと思うのです。聖書というものを教訓や戒めのための書物だと思っていますと、どうしてもこのような例え話を読むにしても、「私たちはどうすべきか」ということにまず考えが行ってしまいます。そして、この場合、「最も小さな者の一人」に対して何を為すべきか、というように、「何かをしてあげる側」に身を置いてこの話を読んでしまいやすいのです。
 しかし、それが唯一の立ち位置なのではありません。私たちは「飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をする」側に立つこともあるでしょうが、もう一方で「お世話をされる」側に立つこともあるのではありませんか。食べさせてもらったり、癒してもらったり、お見舞いしてもらったり、助けてもらったり。自分では何一つ為しえない状況で、苦しんで悩んで、他の人から助けてもらうしかなくて、本当に自分の無力さや小ささを痛感せざるを得ない状況に置かれることだってあるのでしょう。そして、信仰者として、もちろん他の人に対してどうするかということも大きな課題でしょうが、それと同じくらい大きな課題は、まさに「最も小さい者」となった時、あるいはそのようにされた時、いったい何を考えるのか、ということなのではありませんか。そのように「最も小さい者の一人」の場所に立ってこの話を聞くことも必要なことなのです。
 事実、イエス様は別の箇所で弟子たちのことを「小さい者」と呼んでいるのです。同じ福音書の10章において、イエス様はこのように言っておられるのです。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(10:42)。実際、初期の教会の構成していた人たちの多くは奴隷の身分の人たちであったり、この世的には極めて低い立場にあった人たちであり、人々から卑しめられてきた人たちであったのです。また伝道者たちも、まさに物乞いのような有り様で、行くところ行くところで人々のお世話になりながら伝道を続けていたのです。ですから、イエス様の弟子たちにせよ、後のキリスト者にせよ、ここで語られている「最も小さな者の一人」は、決して誰かどこかの他の人ではなかったのです。どうしてもこの「最も小さな者の一人」に身を置いて聞かざるを得なかったのです。
 そのように、私たちもまずはこの「最も小さな者の一人」のところに身を置いて、この福音の言葉を聞いたら良いのです。様々な場面で、飢えたり渇いたり、世話にならなくてはならない私たち。どんなに強がってみても、実際にはしばしば牢に捕らわれて身動きできないような状態の私たち。そのような私たち自身をそのまま持ってきて、イエス様の言葉を聞くのです。するとそこでイエス様がこう言ってくださるのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と。
 どんなに小さな者であろうが、無力な者であろうが、イエス様は「これはわたしの兄弟だ」と言ってくださる。そのようにして私たちの傍らに立たれるのです。そして、私たちが助けを受けるならば、イエス様御自身が受けたかのように感じてくださる。私たちが、誰かの愛情に接して心温まる喜びを感じたならば、イエス様がその愛の行為を受けたかのように共に喜んでくださるのです。またもう一方で、私たちが不当な扱いを受けるなら、私たちが蔑ろにされたり、軽んじられたりするならば、イエス様御自身が蔑ろにされたり軽んじられたりしたかのように怒ってくださるのです。「永遠の火に入れ!」とは実に激しい言葉ではありませんか。しかし、それほどにイエス様は怒ってくださるのです。そのように、私たちはイエス様の兄弟であり、イエス様は私たちと御自分とをいわば同一視してくださるのです。それがここで語られていることなのです。
 そのように、まずは私たち自身の傍らに立って、「これはわたしの兄弟だ。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言ってくださるイエス様を知ることです。私たちをどれほど大切に思っていてくださるかを思うことです。最後の審判においてまで、そう言ってくださるほどに、大切に思われているのです。
 そのように私たちの傍らに立ってくださるイエス様が見えてきますと、もう一つのことが見えてくるはずなのです。他の人の傍らに立っているイエス様です。イエス様が私たちを大切に思ってくださったように、主は他の人たち、私たちの周りの人たち、特に助けを必要としていたり愛されることを必要としている人たちについてもこう言われるのです。「これはわたしの兄弟なのだよ。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだよ」と。
 この例え話をしておられるイエス様が望んでおられることは、そこから始まっていくのです。地獄の火を免れるための保険でもない、神の国に入るために一生懸命に貯えたポイントでもない、いかなる形においても自分自身に栄光を帰さない、もしかしたら自分の記憶にさえも残らない愛の行いが、小さいながらもそこから始まるのです。そして、それはたとえ小さなことであっても、決して主の目に軽んじられることはないのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と主は言われるのですから。そのことを思いながら生きてこそ、はじめて私たちもまた、ここに出て来る羊たちと同じようになれるのでしょう。やがて王の前で、私たちはその時に驚きの声を上げることになるのでしょう。「え?いつわたしたちはそんなことをしましたか?」と。それは何と喜ばしい驚きであることでしょう。