日本ピューリタン教会 We Are the Japanese Puritan Church

Sunday, April 6, 2014

聖書 マタイによる福音書 25章31節~46節








地獄の火を免れるための善行?
 「最後の審判において起こること」というのが今日の説教題です。「最後の審判」という言葉を聞いて、喜びが湧き上がってくるという人、ここにおられますか。心躍らせながら、「ああ、最後の審判が待ち遠しい」と言う人はおられますか。恐らくほとんどいないことでしょう。この説教題は、今日の福音書朗読から取ったものです。今日の福音書朗読を聞いて、心が平安に満たされた人はおられますか。決して多くはないことと思います。というのも、イエス様がなさったお話は、かなり恐ろしい話ですから。最後に羊と山羊に分けられるというのでしょう。そして、羊には「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と語られる。山羊には「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」と言われる。そこでどうしても考えざるを得ないではありませんか。わたしは羊になるか、山羊になるか、と。ましてや、「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」という、具体的な愛の行いが裁きの基準であるようだと知りますと、たちまち自信が持てなくなります。となりますと、山羊の側になるかもしれないのですから、これは本当に恐ろしい話であるということになります。
 もちろん、「恐怖」は時として強烈な善行への動機付けとして働きます。地獄絵がただ恐怖を与えることが目的ではなく善行を促す教育的な意味があったのと同じように、今日の箇所も小さき者への愛の行いを動機付ける物語として読むことができるでしょうし、実際にしばしばそのように読まれてきました。最後に至るまでは人は自分のしたいように生きることができる。しかし、最後には王なるキリストの前に立つことになるのだ。人生を判断するのは人間ではなくまことの裁き主であるキリストである。そこで山羊の側になりたくなかったら、生きている間に、自分が為しえる間に、実際に行動をもって「最も小さい者」に愛を表さなくてはならない、というように。そのように、「恐ろしい話」が必ずしも悪いものとは限りません。私たちには時として恐ろしい話も必要です。それは分かります。
 しかし、この「恐ろしい話」を読んで、最後の審判において羊の側にならないために、地獄の火を逃れて神の国に入るために、あたかも保険をかけるかのように、善行や隣人愛の行為を一生懸命に積み立てるとするならば、それはそれで何か変だと思いませんか。確かに、悪いことをするよりは、善いことをする方が好ましいに違いないのですが、それでも動機と目的がただ「自分の救いのため」ということであるならば、何かがおかしい。そう思いませんか。それではまるで自分が救われるために他の人を踏み台にするようなものではありませんか。それはもしかしたら愛の名を借りた究極のエゴイズムとも言えるかもしれません。そのようなことのために、イエス様がこの話をしているのでないことは明らかでしょう。
 そもそも、それではここに出て来る羊たちとは全く違う姿になってしまうのです。考えてみてください。「最も小さい者にしたことはイエス様に対してしたことになるんだ。今、この人にしていることも、イエス様にしていることになるんだ。これまで随分《イエス様に対して》善いことをしてきたはずだ。もう既に相当ポイントが貯まっているはずだ。このままいけば確実に羊の側に違いない」と思いながら、そのように人生を送って、やがて王なるキリストの前に立ったとしたらどうでしょう。ここに出て来る羊たちとはかなり違ったことを言うのではありませんか。
 彼らはこう言っているのです。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」(37‐39節)。いいえ、あなたのためになど、何一つしておりません、と彼らは言っているのです。そう言って驚いているのです。ポイントが貯まっているはずだと思っている人は、そうは言いませんでしょう。「最も小さい者の一人にしたのは、あなたにしてあげたことになるんですよね!わたしはあなたのためにかなり働いたし、あなたに対する愛の業に励んできたと思うのですが」。そう言うのではありませんか。そのように、山羊の側にならずに羊の側になるために愛の行いに励むとしますと、結果的にはここに出てくる羊たちと同じにはならない。似ても似つかぬ者となってしまうのです。やはり何かがおかしい。
最も小さな者の一人であるわたしとして
 そこで改めて私たちの立ち位置を考えてみる必要があろうかと思うのです。聖書というものを教訓や戒めのための書物だと思っていますと、どうしてもこのような例え話を読むにしても、「私たちはどうすべきか」ということにまず考えが行ってしまいます。そして、この場合、「最も小さな者の一人」に対して何を為すべきか、というように、「何かをしてあげる側」に身を置いてこの話を読んでしまいやすいのです。
 しかし、それが唯一の立ち位置なのではありません。私たちは「飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をする」側に立つこともあるでしょうが、もう一方で「お世話をされる」側に立つこともあるのではありませんか。食べさせてもらったり、癒してもらったり、お見舞いしてもらったり、助けてもらったり。自分では何一つ為しえない状況で、苦しんで悩んで、他の人から助けてもらうしかなくて、本当に自分の無力さや小ささを痛感せざるを得ない状況に置かれることだってあるのでしょう。そして、信仰者として、もちろん他の人に対してどうするかということも大きな課題でしょうが、それと同じくらい大きな課題は、まさに「最も小さい者」となった時、あるいはそのようにされた時、いったい何を考えるのか、ということなのではありませんか。そのように「最も小さい者の一人」の場所に立ってこの話を聞くことも必要なことなのです。
 事実、イエス様は別の箇所で弟子たちのことを「小さい者」と呼んでいるのです。同じ福音書の10章において、イエス様はこのように言っておられるのです。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(10:42)。実際、初期の教会の構成していた人たちの多くは奴隷の身分の人たちであったり、この世的には極めて低い立場にあった人たちであり、人々から卑しめられてきた人たちであったのです。また伝道者たちも、まさに物乞いのような有り様で、行くところ行くところで人々のお世話になりながら伝道を続けていたのです。ですから、イエス様の弟子たちにせよ、後のキリスト者にせよ、ここで語られている「最も小さな者の一人」は、決して誰かどこかの他の人ではなかったのです。どうしてもこの「最も小さな者の一人」に身を置いて聞かざるを得なかったのです。
 そのように、私たちもまずはこの「最も小さな者の一人」のところに身を置いて、この福音の言葉を聞いたら良いのです。様々な場面で、飢えたり渇いたり、世話にならなくてはならない私たち。どんなに強がってみても、実際にはしばしば牢に捕らわれて身動きできないような状態の私たち。そのような私たち自身をそのまま持ってきて、イエス様の言葉を聞くのです。するとそこでイエス様がこう言ってくださるのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と。
 どんなに小さな者であろうが、無力な者であろうが、イエス様は「これはわたしの兄弟だ」と言ってくださる。そのようにして私たちの傍らに立たれるのです。そして、私たちが助けを受けるならば、イエス様御自身が受けたかのように感じてくださる。私たちが、誰かの愛情に接して心温まる喜びを感じたならば、イエス様がその愛の行為を受けたかのように共に喜んでくださるのです。またもう一方で、私たちが不当な扱いを受けるなら、私たちが蔑ろにされたり、軽んじられたりするならば、イエス様御自身が蔑ろにされたり軽んじられたりしたかのように怒ってくださるのです。「永遠の火に入れ!」とは実に激しい言葉ではありませんか。しかし、それほどにイエス様は怒ってくださるのです。そのように、私たちはイエス様の兄弟であり、イエス様は私たちと御自分とをいわば同一視してくださるのです。それがここで語られていることなのです。
 そのように、まずは私たち自身の傍らに立って、「これはわたしの兄弟だ。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言ってくださるイエス様を知ることです。私たちをどれほど大切に思っていてくださるかを思うことです。最後の審判においてまで、そう言ってくださるほどに、大切に思われているのです。
 そのように私たちの傍らに立ってくださるイエス様が見えてきますと、もう一つのことが見えてくるはずなのです。他の人の傍らに立っているイエス様です。イエス様が私たちを大切に思ってくださったように、主は他の人たち、私たちの周りの人たち、特に助けを必要としていたり愛されることを必要としている人たちについてもこう言われるのです。「これはわたしの兄弟なのだよ。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだよ」と。
 この例え話をしておられるイエス様が望んでおられることは、そこから始まっていくのです。地獄の火を免れるための保険でもない、神の国に入るために一生懸命に貯えたポイントでもない、いかなる形においても自分自身に栄光を帰さない、もしかしたら自分の記憶にさえも残らない愛の行いが、小さいながらもそこから始まるのです。そして、それはたとえ小さなことであっても、決して主の目に軽んじられることはないのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と主は言われるのですから。そのことを思いながら生きてこそ、はじめて私たちもまた、ここに出て来る羊たちと同じようになれるのでしょう。やがて王の前で、私たちはその時に驚きの声を上げることになるのでしょう。「え?いつわたしたちはそんなことをしましたか?」と。それは何と喜ばしい驚きであることでしょう。

Sunday, March 16, 2014

名古屋のホームレス Nagoya Homeless


名古屋 名城公園


栄地下鉄駅



愛知県と名古屋市にはホームレスのデイセンターやシェルターを持っていません。デイセンターや避難所、食事、安全、シャワー、洗濯のためにホームレスの場所を提供します。デイセンターはホームレス生活技能を教える。ホームレスが自立するために、これらのライフスキルを指導します。ホームレスは彼らが困難な状況にあり怠け者ではありません。手助けは解決ではありません。解決はホームレスが独立していくように教えるのがデイセンターです。
ホームレスに安全なサービスを提供します。また、ホームレスがもとの生活を取り戻すためにチャンスを得ます。私たちは、避難所、食糧、衣類、とシャワーを提供します。さらに重要なことはホームレスから自立するために、ホームレスの依存関係から脱却することでもとの生活を取り戻すことになります。
あなたの寄付は、フルサービスのデイセンター、食品、その他の必需品を提供するのに役立ちます。

The Homeless in Nagoya have no shelter or day center.  They must sleep where they can find space.  Under highway overpasses, parks, train stations, and even on the sidewalk.  Something must be done about this.  Our solution is to work with Nagoya area churches to create a day center.  Here they could eat meals, shower, wash clothes, and seek rest from the weather.  
Our goal is not to "help" the homeless, this only perpetuates the problem.  Our mission is to end homelessness in Nagoya by assisting the homeless to regain their independence.

Wednesday, January 1, 2014

明けましておめでとう




明けましておめでとうございます。神の祝福がありますよう。

Tuesday, December 31, 2013

コミュニオン儀式

コミュニオン儀式

執事:
使徒パウロは教えて:
だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。 だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。 (1Cor.11:27-28)
私たちの良心を調べてみましょう。

十戒
牧師と会衆:

主が唯一の神であること 。
偶像を作ってはならないこと。
神の名前をみだりに唱えてはならないこと 。
安息日を守ること。
父母を敬うこと 。
汝、殺すなかれ。
汝、姦淫なかれ。
汝、盗むなかれ。
汝、偽誓なかれ。
汝が切望なかれ。

(時間は良心を調べました。)
赦しの祈り (牧師と会衆):
主イエス、
私たちは罪を犯しました。私たちはあなたの許しをお願いします。
私たちは、善を行うことを約束します。主の聖なる名前で、アーメン。

牧師:
イエスは言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。(John 6:35, 39-40)

会衆は言います:
神にかんしゃ。

執事:
わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。
パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。(1Cor. 10:16-17)

会衆は言います:
キリストに賛美

牧師:
主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、
「これはあなたがたのための、わたしのからだである。
わたしを記念するため、このように行いなさい」。
食事ののち、杯をも同じようにして言われた、
「この杯は、わたしの血による新しい契約である。
飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。
だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、
主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。(1Cor. 11:23-26)

会衆は言います:
主の平和

牧師:
栄光は父と子と聖霊に

会衆は言います:
初めのように今も何時も世々に

主の祈り
(牧師と会衆は言います)
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです アーメン .

牧師:シンボルのキリストの体と血
牧師と会衆はコミュニオンを食べます。



Monday, December 9, 2013

平和

ルカ2:25−35


アドベントの二本目のキャンドルは「天使のキャンドル」と呼ばれ、それは「平和」を表わします。イエスがお生まれになった夜、天の軍勢が「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」と賛美したことから来ています。
 「いと高きところでは、神に栄光があるように」はラテン語で「グロリア・イン・エクセルシス・デオ」(Glória in excélsis Deo)と言います。「グロリア」は「栄光」、「イン」は英語の "in" と同じです。「エクセルシス」は「いと高きところ」で、「デオ」は「神に」という意味です。多くのクリスマスの賛美歌には、この言葉が含まれていますし、 中には「荒野のはてに」など、そのままラテン語で歌う賛美歌もあります。
 「グロリア・イン・エクセルシス・デオ」(いと高きところでは、神に栄光があるように)というラテン語は良く知られていますが、それに続く「エ ト・イン・テラ・パックス・ホムニブス・ボネ・ヴォランタティス」(et in terra pax homínibus bonae voluntátis)というラテン語はあまり知られていませんので、説明しておきます。「エト」は英語の "and" で、「テラ」は「地」、「パックス」は「平和」、「ホムニブス」は「人々に」、「ボネ・ヴォランタティス」は "Goodwill"(善意の)という意味になります。
 聖書には「天の軍勢」がこの賛美をささげたとあります。「天の軍勢」というわけですから、それは幾千万の天使の大合唱だったことでしょう。日本で は毎年12月第一日曜日に「一万人の第九」という催しがあり、ベートヴェンの第九交響曲が演奏され、「歓喜の歌」の合唱がありますが、その大合唱も、天使 たちの大々合唱にくらべればちっぽけなものに見えるでしょう。
 一、神に栄光
 「いと高きところでは、神に栄光があるように」という賛美は、救い主のお生まれにふさわしい賛美です。神は、もとから栄光に満ちたお方ですが、救い主を通して、さらに大きく、豊かな栄光をお受けになるからです。
 人間は神の栄光をたたえ、それを表わし、その栄光に与かるために造られました。しかし、人は神に背を向け、神をたたえるどころか、自らを神にまつ りあげ、神にとってかわって世界を支配しようとしました。それは、大規模な形では世界征服を狙う独裁者に見ることができますが、同じことは、私たちの身近 に、いや私たち自身の中にもあるのです。自分が中心でなければ気が済まないこと、思いどおりにならないとわめき散らすこと、何事にも首をつっこんで人をコ ントロールしたがること、他の人が誉められるとそれを妬むことなどに、神のみこころを悲しませる罪があります。こうした罪は、それが見えるか見えないか、 大きいか小さいかに関わりなく、世界に戦争と不安を、社会に不正と不公平を、家庭に亀裂と破壊を、個人に虚しさと不安をもたらしてきました。神が、そのよ うな世界を裁き、人類を滅ぼしてしまわれたとしても、神の栄光は少しも損なわれることはありません。神は罪を取り除くことにおいて大きな栄光をお受けにな るでしょう。
 しかし、神は罪とともに人間が取り除かれることを望まれませんでした。神は人を愛して、罪の中から人を救い出す道を選ばれたのです。そして、その ために、ご自分のひとり子を救い主として、この世に遣わしてくださいました。救い主は人の罪を背負い、人類の身代わりとなって、ご自分の身に神のさばきを 引き受けてくださいました。救い主はご自分がさばきを受けることによって人の罪を赦し、ご自分が命を捨てることによって、信じる者に永遠の命を分け与えて くださいました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためであ る。」(ヨハネ3:16)神は、救い主イエス・キリストによって、この世に愛を届けてくださいました。これはこの世のどこにもない愛です。人はこの愛に よって救われます。そして、救われた者は、この愛のゆえに神の栄光をもっと豊かにほめたたえるのです。エペソ1:6に「これは、その愛する御子によって賜 わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである」とある通りです。
 すべての人は、神に造られた者として神の栄光をたたえることができます。ですから、教会の礼拝はすべての人に開かれています。しかし、イエス・キ リストが私の罪のために命を投げ出してくださったことを知り、信じる者は、造られた者としてだけでなく、イエス・キリストの十字架の血で、罪から買い戻さ れた者、つまり、贖われた者として、より豊かに神をほめたたえることができるようになるのです。教会の礼拝に集い、一緒に神への賛美を歌っておられる方々 が一人残らず、イエス・キリストをご自分の救い主、また主として、その心に、生活に、人生に迎え入れ、キリストによって示された神の愛のゆえに、より大き く、豊かに神の栄光をほめたたえることができますよう願い、このクリスマスがその時となるよう祈っています。
 二、地に平和
 「神に栄光あれ」と歌った天使は、続いて「地に平和あれ」と歌いました。「栄光」が救い主によって明らかにされた栄光であるように、この「平和」もまた、救い主によって与えられる平和をさしています。
 イエスがお生まれになった時代はローマ帝国が世界を支配していた時代です。ローマは様々な国々を征服・吸収し、地中海世界に大きな帝国を築きあ げ、その地域は長い間平穏を保ちました。それは「パックス・ロマーナ」(ローマの平和)と呼ばれ、ローマ皇帝は自らを人々に平和をもたらす「救い主」と呼 びました。しかし、「ローマの平和」はローマが他の国々を力づくでねじ伏せた上に成り立っていた平和にすぎず、属国や植民地では人々は大きな苦しみを味 わっていました。歴史を通して、多くの人が、自分こそ「救い主」だと言って、世界をわが物にしょうとしましたが、そうした支配は恐怖と圧迫によるもので、 決して人々に本物の平和を与えませんでした。ただおひとり、まことの救い主、平和の君であるイエス・キリストだけが、私たちに本物の平和、平安を与えてく ださるのです。
 キリストによって与えられる平和は、まず、人の心に「平安」となって宿ります。イエスは弟子たちに約束されました。「わたしは平安をあなたがたに 残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」 (ヨハネ14:27)弟子たちは、イエスに従い、イエスを宣べ伝えたために、大きな苦しみに遭いましたが、その中でも、心の平安を失くしませんでした。使 徒パウロは「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれ ば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(ピリピ4:6-7)と教え ました。それは、環境に左右されない心の平安です。神を信じて祈ることによって得られる確かなものです。私たちの人生には、思い患わずにはいられないこ と、不安を覚えずにはおれないことが必ず起こります。そんな中でも、神の平安が私たちの心と思いをキリストによって守ってくれるというのです。信じて祈る 者には、こんな素晴らしい約束があるのです。ですから、私たちはどんなに思い患うことがあっても、祈りを忘れないのです。
 サーモメーターとサーモスタットとは名前は似ていても働きは違います。サーモメーター(温度計)は気温が上がれば上がり、気温が下がれば下がりま す。部屋の気温を表示するだけです。しかし、サーモスタット(温度調節器)は気温が上がれば冷房を動かして部屋の気温を下げ、気温が下がれば暖房を動かし て部屋の気温を上げます。サーモメーター型の人は、大変なことがあるからといって心配し、嫌な目にあったからといって怒り、ものごとがうまくいかなかった からとって落胆します。けっきょくは回りの状況に左右されているだけです。しかし、サーモスタット型の人は違います。火のような苦しみが襲いかかってきて も、静かにそれを耐え、人々を励ましていきます。まわりが冷たい雰囲気になっても、そこを温めていきます。まわりのものに左右されない、神が与えてくださ る平和、キリストが与えると約束された平安を持っているからです。私たちも信仰と祈りによってこの平安を持ち続けたいと思います。
 三、栄光と平和
 神の平和は、また、人生に意味と目的を与える平和です。ルカの福音書には、天使が歌った「平和の歌」のほかに、シメオンが歌ったもうひとつの「平 和の歌」があります。母マリヤとヨセフが生後40日目に赤ちゃんのイエスを神に捧げるために神殿にやってきたときのことです。長い間救い主の到来を待ち望 んでいたシメオンという人は、その赤ちゃんこそ救い主だということを示され、赤ちゃんのイエスを腕に抱いて、こう言いました。
主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに
この僕を安らかに去らせてくださいます、
わたしの目が今あなたの救を見たのですから。
この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、
異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります。
生涯をかけて救い主の到来を待ち望んできたシメオンは、ついに救い主に出会い、そのお方を自分の腕の中に抱きしめることができたのです。シメオンは、人生 の目的を達成したことに満足し、「主よ、今こそ、あなたはあなたはみ言葉のとおりに/この僕を安らかに去らせてくださいます」と歌いました。神が与える平 和、平安は、このように人生に意味を与え、目的を与えるのです。皆さんの心の中には、そのような平和、平安が宿っているでしょうか。世を去るときに、人生 の目的を達成した満足を味わうことができるでしょうか。
 神を信じ、キリストに従うことは、自分の幸いは何一つ求めず、ひたすらに神の栄光だけを追求するということではありません。神は、私たちが自らを 注ぎ出し、自らを捧げることによって栄光をお受けになられるだけでなく、私たちが神からの平安を受け取り、それに満たされてることによって、さらに栄光を お受けになるのです。神は、私たちの救いを願っておられ、救われた者がこの地にあっても、神からの平和に満たされることを望んでおられます。私たちが神に あって幸いであり、キリストにあって満たされることが神の栄光を表わすことになるのです。
 シメオンの歌は「ヌンク・ディミティス」(今、私は去る)と呼ばれています。日本の教会では、近年、礼拝の最後にシメオンの歌「ヌンク・ディミ ティス」を取り入れるようになりました。シメオンの歌をほぼそのまま歌うのです。シメオンが「わたしの目が今あなたの救いを見た」と言ったように、礼拝は キリストの救いを信仰の目で見、心に平安を満たされ、再び、日々の生活に帰って行くときです。礼拝は、救い主イエスと出会うところであり、その救いを「見 る」、つまり、体験するところです。礼拝は、私たちが「神に栄光あれ」と言って、神に栄光をお返しするときですが、同時に、神が「地に平和あれ」と仰った その平和を受け取るときでもあるのです。神は私たちが何も持たないで礼拝から去ることを望んでおられません。「地に平和」と天使たちによって歌われた平和 を受け、それを心に宿し、この礼拝から平安のうちに進んで行きたいと思います。
 (祈り)
 いと高きところにおられる神さま、私たちはあなたに「栄光」をお返しします。今、私たちにあなたの救いを見せ、「平和」を与えてください。私たち はあなたからの平和なしには、起こってくる出来事に右往左往し、回りの人々の言葉や態度、行いに振り回されるだけの人生で終わってしまいます。あなたの平 和なしには、一日を勇気をもって始め、それを満足と、喜びと、感謝をもって終えることができません。私たちはこの礼拝から平安のうちに生活の場に帰りたい と願っています。あなたの平和を与え、平安のうちに私たちを遣わしてください。主イエスのお名前で祈ります。

Sunday, November 3, 2013

信者の証言。


イエスはあなたを愛している。イエスはどんな罪を赦しすべてのあなたの心をイエスに回して、イエスはあなたを許すでしょう

Friday, August 30, 2013

主のいる場所


悲しいことはありません主は近くにあります。